1624 東京大空襲がきょう 渡部亮次郎

「東京大空襲」と言った場合、特に、規模が最も大きい1945年(昭和20年)3月 10日に行われた空襲を指す。大東亜戦争に行われた空襲の中でもとりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲として知られている。
当時はTVが無い。新聞も極小さかった。小学校(国民学校)4年生。東京なんて知らないから、そこで何万人も死んだなんて全く知らないで育った。やがて空襲は秋田にもやってきて敗戦となった。
空襲を行ったB-29戦略爆撃機3月10日の大空襲は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているとして、市街地と市民そのものを攻撃対象に行なわれた低高度夜間爆撃である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の3個航空団が投入された。
1945年3月9日から10日に日付が変わった直後に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下された。
深川の三業地と芸者衆が全滅した。その後、城東(江東区)地区にも爆撃が開始された。午前0時20分には浅草地区でも爆撃が開始されている。火災の煙は高度7000mまで達し、秒速20mと台風並みの烈風が吹き荒れた。
東京大空襲でB-29は日本の貧弱な防空能力を見越し、殆どの機銃と弾薬を降ろして通常の約2倍、6tの高性能焼夷弾を搭載していた。
投下された爆弾の種類は、この作戦で威力を発揮した集束焼夷弾E46を中心とする油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などであり、投下弾量は約38万発、1,700tにのぼった。
当夜は低気圧の通過に伴って強い北西風が吹いており、この強風が以下の条件と重なり、大きな被害をもたらした。
警戒用レーダーのアンテナを揺らしたため、確実に編隊を捕捉出来ず空襲警報の発令が極端に遅れた(発令されたのは初弾投下後の3月10日午前0時15分)。
「低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入した。まず、先行するパス・ファインダー機が超低空でエレクトロン焼夷弾を投弾して閃光で攻撃区域を本隊に示し、爆撃機編隊も通常よりも低空で侵入して発火点を包囲するかたちで集束焼夷弾E46を投弾した。
狙い撃ちの攻撃で、着弾は高高度爆撃よりはるかに精密になった。後続編隊は早い段階で大火災が発生したため、非炎上地域に徐々に爆撃範囲を広げたが、火災による強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の投下予定地域ではない荒川周辺まで広げた。このため、火災範囲は更に拡がった。
折からの北西の季節風(空っ風)が火勢を煽り、延焼を拡げた。
東京近郊の飛行場に配備されていた夜間戦闘機隊が迎撃に向かったが、猛火による猛烈な上昇気流と煙により迎撃は困難を極めた。やがて火災の煙と灰で各飛行場は離陸が困難になった。
これら複数の要因が重なり被害が拡大。8万人以上(10万人以上とも言われる)が犠牲になり、焼失家屋は約27万8千戸に及び、東京の3分の1以上の面積(約40平方キロメートル)が焼失した。
焦土と化した東京の下町。この時使用された焼夷弾は日本家屋を標的にした物であり、ドイツがロンドンを空襲した際に不発弾として回収された物を参考に開発された。
当時の平均的な構造とは違う作りをしていた。通常、航空爆弾は瞬発または0.02~0.05秒の遅発信管を取り付けることで、爆発のエネルギーを破壊力の主軸にしている。
しかしこれでは木材建築である日本家屋に対してはオーバーキルとなる。そこで爆発力ではなく、燃焼力を主体とした「焼夷弾」が開発され、これが木造を主とする日本家屋を直撃した。
火災から逃れるために、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人もいたが、火災の規模があまりにも大きいため、火災旋風が至る所で発生し、建物に炎が滝のように流れ込み、焼死する人や、炎に酸素を奪われ窒息死する人も多かった。
また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も多く、翌朝の隅田川は凍死・溺死者で川面が溢れていた。逆に、東武伊勢崎線沿いに内陸の春日部・草加方面へ脱出し生存した例が散見される。
3月10日は日露戦争の奉天戦の日であり、陸軍記念日となっていた。日本の戦争継続の気力を削ぐため、あえてこの記念日が選ばれたと言われている。
3日後の3月13-14日に大阪大空襲が行われた。
3月以降も東京への空襲は容赦なく続けられた。3月10日に次いで被害の大きかったのは5月25日で、470機が来襲し、それまで空襲を受けていなかった山の手が主な対象になった。死傷者は7415人、被害家屋は約22万戸の被害となった。
3月―5月にかけての空襲で東京市街の50%が焼失した。また、多摩地区の立川、八王子なども空襲の被害を受けている。その後、空襲の矛先は各地方都市に向けられていく。
1944年11月24日にヘイウッド・S・ハンセル准将の指揮によりはじめられた本土空襲は、軍需工場、製油所などの目標地点のみ攻撃するピンポイント攻撃であったが、思わしい効果が上がらなかったため、翌年の1945年1月21日にカーチス・E・ルメイ少将と交代した。
「軍需工場の労働者の家や使用する道路、鉄道を破壊することが効果的だ。」というヘンリー・H・アーノルド大将の意を受けたルメイは、大規模な無差別攻撃を立案、その手始めに東京を選んだ。 ただし、かなりのリスクを背負っていた。それは、
(1)燃料節約のためB29は編隊を組まないで、単独飛行にしたこと。コースを外れる危険性があった。
(2)低高度(高度7千~8千フィート)からの焼夷弾を投下する。日本上空の強い風を避け、目標を絞りやすいが、対空砲火や日本の戦闘機の標的になりやすい。
(3)爆撃の効果を上げるために搭乗員を減らしてまで、焼夷弾の搭載量を増やした。迎撃に遭遇しても反撃できなかった。
というもので、猛将とよばれたルメイも一睡もせずに攻撃隊の返事を待っていたという。
「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは天皇すら予想できぬ。」「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのである」とルメイ自身証言している。
これ以降も、日本側の産業基盤を破壊し、また戦意を挫くため、全国各地で空襲が行なわれ、その結果多くの一般市民が犠牲となった。
建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃であるが、実際には多数の民間人(非戦闘員)が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強い。しかし日本政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄している。
戦後1964年(昭和39年)に日本政府は、日本本土爆撃を含む対日無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイ少将に対し、航空自衛隊の育成に貢献したとの理由で勲一等旭日章を授与した。
近年では、戦勝国政府に対する極端な擦り寄りではないかと言う批判の声もあるが、真珠湾空襲に大きく関わった源田実は当時この勲章授与を賞賛した。
しかしルメイは後年、「自分たちが負けていたら、自分は戦犯として裁かれていた」と述べている。ルメイの前任者ヘイウッド・ハンセル少将は高高度からの軍事目標への精密爆撃にこだわった故に解任されている。
無差別戦略爆撃は、原爆投下も含めてアメリカ大統領たちの選択であったと言ってよい。もっとも、同じアメリカ軍内でもチェスター・ニミッツ元帥などはルメイをあからさまに批判しており評価は分かれている。
身元不明の犠牲者の遺骨は関東大震災の犠牲者を祀る震災慰霊堂に合わせて納められ、現在は東京都慰霊堂になっている。慰霊堂では毎年3月10日に追悼行事が行われているほか、隣接する東京都復興記念館に関東大震災及び東京大空襲についての展示がある。
東京都は1990年(平成2年)、空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを条例で定めた。一連の空襲による正確な犠牲者数は不明である。
東京都では墨田区の横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、遺族などからの申し出により判明した分の犠牲者名簿(1942-1945年の空襲犠牲者)を納めている。
東京の市街地でも空襲を免れた区域がある。
丸の内付近では東京府庁(東京都庁)と東京駅が空襲を受けたが、空襲を免れた区域も多い。これは占領後の軍施設に使用する予定の第一生命館や明治生命館などがあった為と言う。
築地付近が空襲を受けなかったのは、アメリカ聖公会の建てた聖路加国際病院があったからだとも言われる。
中央区の佃島・月島地区も戦火を免れ、現在も戦前からの古い木造長屋が残っている。3月10日の下町空襲で甚大な被害を受けた旧・深川区(現在の江東区)とは晴海運河を挟んで明暗が分かれた形となった。
ロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館のある東京帝国大学付近も空襲は受けていない。
神田には救世軍本営があるため被害を受けなかったとも言われるが定かではない。また神保町古書店街の蔵書の消失を恐れた為という俗説もあるが、米軍はドレスデン爆撃など文化財の破壊を意識せず(むしろ好んで)行っていることから信憑性は高くない。
皇居は対象から外されていたが、5月25日の空襲では類焼により明治宮殿(明治憲法の発布式が行われた建物)が炎上した。このため、松平恒雄宮内大臣が責任を取って辞任している。
3月10日、アメリカ軍の損害は撃墜・墜落12機、撃破42機であった。
<後の戦犯裁判で、B29の搭乗員を処刑した罪に問われた岡田資(たすく)中将の法廷闘争を描いた映画「明日への遺言」(小泉堯史監督)が、今月1日から全国で公開されている。
リーダーのあり方や無差別爆撃の非人道性を問うた作品だ。戦争体験者らにまじって若い観客も目立ち、関心の高さをうかがわせる。米国の国際映画祭でも上映され、拍手が鳴りやまなかったという。
日本と米国の特に若い人たちに、無差別爆撃の戦争責任について、改めて問い直し、検証してほしい。>産経新聞「主張」2008・3・9」
太田仲三郎    実業家。3月の空襲で死去。
立花家扇遊    芸人。3月の空襲で死去。
豊嶌雅男     力士。3月の空襲で死去。
古屋慶隆     政治家。3月の空襲で死去。
枩浦潟達也    力士。3月の空襲で行方不明。
吉村操      映画監督・脚本家。3月の空襲で死去。
石井菊次郎    元外交官・外務大臣。5月の空襲で行方不明。
織田萬      法学者。5月の空襲で死去。
4代目柳家枝太郎 落語家。5月の空襲で死去。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・03・09
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