1668 チベット・ホロコースト50年(上) 伊勢雅臣

チベットで暴動が起こっています。その背景を知りたい方のために、JOG(国際派日本人養成講座)123号「チベット・ホロコースト50年(上)~アデの悲しみ~」を再発信させていただきます。(下)は次週月曜日に発信いたします。
■1.「花の土地」に生まれたアデ■
アデは1932年、チベット東部、中国との国境に近いカム地方メトク・ユル(花の土地)にタポンツァン家の末娘として生まれた。
いまでも目を閉じれば、子どもの頃の日々が鮮やかによみがえる。はてしなく広がる空の下、花でいっぱいの野原を笑いながら走ったり、転げ回ったりしていた日々。
遊び疲れた遅い午後には、父のひざの上に座るのが大好きだった。父はよくカワロティ山脈の峰のほうを見つめていた。この山々の姿を見ると、父はしばしば乾杯のために杯をささげ、歌うのだった。・・・父はカワロティ(万年雪)とは、ヒマラヤの神で山の中に住み、私達が立っているこの土地もカワロティの領土なのだと教えてくれた。
この幸福な少女が、後に父も兄も、将来の夫も子供も、侵略者に命を奪われ、さらに27年も牢獄で暮らすことになるとは、この時、誰が予想し得たであろう。
私たち子どもがいうことを聞かないとき、大人たちはよく中国人を持ち出して子どもたちをおびえさせた。大人たちはこういった。「いうことをきかないと、劉文輝将軍が来て連れてかれちゃうよ」
劉文輝将軍とは、1920年代に四川省のほとんどを制圧した軍閥で、チベットの国境地域を侵略し、残虐な行いでチベット人から恐れられていた存在だった。
しかし、実際にやってきたのは、もっと恐ろしい毛沢東の共産党軍だった。彼等は、日本の6.5倍もの広さを持つチベット全土を蹂躙し、山林を乱伐し、核廃棄物の捨て場とした。600万人のチベット人のうち、120万人の生命を奪い、さらに産児制限や中絶・不妊手術の強制を行った。今日では750万人もの中国人が移住した結果、チベット人はチベット本土でも少数民族にされてしまった。
■2.中国人は我々からすべてを奪い去るつもりだ■
1948年の晩春、16歳になっていたアデは、3歳年上のサンドゥ・パチェンと結婚した。やさしく思いやりのある夫とその母親にアデは暖かく迎えられた。
しかし、その幸せは長くは続かなかった。1950年春には、中国共産党軍がアデの住むカンゼ地区にやってきた。この地方だけで、3万人の中国兵であふれかえった。中共軍はこう発表した。
私たちは、みなさんが一般の人々の生活を向上し、過去の過ちを正して、真の人民による政府を築き上げるのを助けるために来ました。・・・私たちの義務を遂行したら、私たちは自分の国に帰ります。
やがて占領軍は、貧しい子どもたちのために小学校を作り、中国共産党の講師たちが教え始めた。チベット人は彼等の偉大なる母国中国の少数民族であり、はるかに卓越した中国文化を学ぶべきだと教えた。
アデの父親は、地域の有力者として選ばれ、派遣団の一員として、中国視察に送られた。彼はそこで国民党員の囚人をあふれるほど載せて処刑場に向かうトラックを見て、中国共産党の正体を知った。
戻った父は、信頼できる友人を訪ねては、中国人は我々からすべてを奪い去るつもりだ、と語った。中共軍は父に「再教育を受けるように」と命じた。帰国時から健康のすぐれなかった父は、その時すでに病床に伏しており、中国兵に病院に連れて行かれた。
父ははじめは頑固に治療を拒否していたが、アデの兄たちのすすめに従って、薬を飲み始めた途端、見る間に体力が衰えて、亡くなってしまった。
■3.チベットから帝国主義侵略勢力を追放する■
1951年の始めに、ダライ・ラマ14世は、中国政府の要求により、チベット代表団を北京に送った。
この時、ダライ・ラマは弱冠16歳だったが、租税徴収の公正化を実現して国民を喜ばせるなど、意欲的な統治者ぶりを発揮し始めていた。しかし平和な宗教国家として、わずか8500人の国境警備隊しか持たないチベットは、中国の軍事圧力に屈するしかなかった。
チベット代表団は、17項目の協定案を最後通牒として提示され、従わない場合は、より以上の軍事行動を展開する、と脅迫された。ダライ・ラマの訓示を仰ぐことは禁ぜられ、中国側が偽造したチベット印璽で、調印することを強要された。
その第一条は、以下の文面であった。
チベット人民は団結して、チベットから帝国主義侵略勢力を追放すること。チベット人民は母国中華人民共和国の大家族に復帰すること。
これには、二重の虚偽が含まれている。第一に、この時、チベットにはいかなる外国勢力もなかったのであって、外国勢力といえば、チベットが1912年に最後に追い出した中国人兵力だけであった。
第二に、チベットが中国の一部であるという主張も、強引に史実をねじ曲げたものだった。チベットは、史実の伝わる1300年以上の歴史を通じて、かつて漢民族によって支配されたことはない。元と清の皇帝はラマ教(チベット仏教)に帰依し、チベットの宗主国の立場にあったが、前者はモンゴル民族であり、後者は満洲民族である。漢民族はそれらの帝国の植民地の一部であったにすぎない。
協約の第2条は「チベットの地方政府は、人民解放軍がチベットに入って国防を強化するのを積極的に助けること」、第8条はチベット軍を中共軍に併合する事を規定し、第14条は、外交上のあらゆる権限をチベットから剥奪していた。
協定が調印されてからまもなく、聖都ラサにも、中共軍一万人規模の駐屯が始まった。
かれらは何一つ携帯しては来なかった。ことごとくわれらの貧弱な糧食源から供給をうけるつもりであった。穀物の価格が突如として約10倍にも高騰した。バターが9倍、一般穀物が2倍ないし3倍になった。ラサの民衆は飢餓の縁まで零落した。
■4.夫の急死■
1955年春、アデに長男チミ・ワンギャルが生まれた。しかし、この時には、夫サンドゥ・パチェンは、アデの兄たちや、姉の夫ペマ・ギャルツェンとともに、中共軍と戦う決意を固めていた。
翌56年の早春には、多くの地域で戦闘が始まっていた。サンドゥは、アデと幼いチミを、ラサにいる裕福な親戚のもとに避難させる事にした。
出発に先立ち、地域の人を集めて送別の宴を開いた。ところが、サンデュが出された肉を食べた途端、胃をかきむしり、叫びながら地面に倒れた。アデは彼のもとに駆け寄った。何人かの人々が村医者を呼びにいった。しかし、サンデュは医者が来る前に、あっけなく死んでしまった。彼の皿に毒が入れられる所を見た人はいなかったが、中国側のしわざと誰もが思った。
多くの友達や家族が、遺体の周りに立って泣いた。すべてが一瞬の出来事だったので、アデは呆然とするばかりだったが、目から涙がこぼれだした時には、気を失って倒れた。この時、息子のチミは1歳、アデは次の子どもを宿していた。
アデに実の母親のようにやさしくしてくれた姑のマ・サムプテンは絶望状態に陥り、息子の死の衝撃から立ち直れずに、半年後に亡くなった。アデは息子とともに、実家に戻った。
 
■5.「民主改革」始まる■
56年春にはカンゼ地区での「民主改革」が始まった。僧院の所有地が没収され、僧たちは農耕を強制された。耕作はミミズや虫などの小さな生き物の命を奪うために、僧たちには許されていなかった。このチベット仏教の教えを否定するために、僧たちは蠅や鳥などを殺すノルマを与えられた。
人民裁判がさかんに開かれ、子どもたちは両親を、使用人は雇い主を、僧院の農民は僧たちを告発するよう要求された。アデは、自分の家族と親しくしてきた僧が、四つん這いにさせられ、中国人の女性兵士から顔に小便をかけられるのを見た。群衆は、自分たちの僧が辱められるのを見て、泣いた。
民衆はすべての貴重品を提供するよう要求された。アデの指輪、腕輪、伝統的な装飾品、そして上等の服まで没収され、古いすり切れた洋服だけが残された。中国兵たちは、仏壇から仏像を持ち出し、「仏像を撃ったら、極楽に上がっていくかどうかを見てみよう」と言って、射撃の的にした。
貴重品を隠そうとする人々には、容赦ない拷問が加えられた。後ろ手に、両手の親指だけを縛られて、吊り下げられた。この方法では、あまりに多くの人が死んでしまうため、後には、竹串を指と爪の間に差し込む方法に変えられた。
■6.アデの逮捕■
カンゼ地区の男たちは、森に潜伏して、中共軍にゲリラ戦を挑んだ。アデは5~60人の女性とともに、密かに中国側の動きを伝え、食料を供給する役を果たした。抵抗組織のリーダーの一人は、義兄のペマ・ギャルツェンだった。
各地の抵抗組織は、中共軍の駐屯地を攻撃し、多大の損害を与えた。しかし中共軍は、飛行機による爆撃や、数万人規模の兵力を投入して反撃した。チベット亡命政府の発表では、戦闘による犠牲者は43万人に上るとされている。
ペマ・ギャルツェンも、カンゼ地方の中国人行政官を夜襲し、高級将校二人とともに、殺害した。この成功の知らせはチベット中の人々の望みを高まらせた。
しかし、この事件で、アデの兄オチョエを含む地区の行政委員が告発され、処刑されると発表された。ギャルツェンは、オチョエを救うべく、仲間とともに山を下り、投降した。
ギャルツェンの仲間の一人が、拷問の末、支援者としてアデの名を漏らし、早朝6人の中国兵がアデを逮捕しに来た。アデが子どもたちをおいてはいけないと抵抗すると、彼らはアデを殴ったり、蹴ったりして、ロープで縛った。泣き叫ぶ息子のチミがアデにまとわりつくと、中国兵は押し返して、ブーツで蹴り上げた。なおも抵抗するアデを家の外まで引きずり出した。
■7.我々は、お前を一生苦しめたいのだ■
アデに仲間の名前を白状させようと、中国兵たちは拷問を続けた。両手を頭の上にあげて、二つの鋭い三角形の木の上にひざまづくよう強要された。腕を下げると、ライフルの柄でひじをなぐられた。またある時は、極細の竹棒を人差し指の竹の間に、第一関節まで少しづつ突き刺していった。
獄中では、何ヶ月も手錠をかけられたままだったので、両手とも手のひらまで腫れ上がった。監獄の仲間たちは、そんなアデの食事や用足しを助けてくれた。それでもアデは仲間の名前を白状しなかった。
ある朝、アデは車で軍司令部の近くの平原に連れて行かれた。膨大な数の群衆が集まっていた。横20センチ、縦10センチほどの板が首にかけられた。
そこに義兄のペマ・ギャルツエンが、同じように首に板をかけられた姿で、連れてこられた。アデとペマは向かい合ってひざまづかされた。ペマは両手を後ろにきつく縛られ、のどにもロープを巻きつけられて、ろくに話すこともできない状態だった。それでも、殴られて赤く腫れあがった顔で、アデにほほえみかけた。拡声器から声が流れた。
本日、我々はペマ・ギャルツェンの処刑を行う。アデ・タポンツァンは、残りの人生を通して苦しませるという判決が下った。本日、彼女には16年の「労働による矯正」が宣告された。
二人は立ち上がるよう命ぜられた。アデは「さあ、早く三宝(仏法僧)に祈りを捧げるのよ」と言った。ペマはうなづいた。後ろから2発の銃声が聞こえ、ペマはアデの前に倒れた。脳の破片と血液がアデの服の上に飛び散った。
アデは中国兵に、自分も殺してくれ、と頼んだ。
だめだ。もしお前を殺しても、いま目の前にいるペマ・ギャルツェンと同じだ。一瞬で終わってしまう。我々は、お前を一生苦しめたいのだ。もう誰が勝ったかわかっているな。
拡声器は、「自分たちのいうことを聞けば、幸せな生活が待っている。さもなければ、ペマ・ギャルツェンと同じ運命が待っている」と群衆に叫び続けた。
1959年晩冬の日だった。この日からアデは各地の収容所を転々とし、強制労働に耐えつつ、持ち前の強い気力で餓死や病死をまぬがれた。釈放されたのは、26年後、1985年のチベット正月であった。(続く)
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