1693 狂犬病予防注射の時節 平井修一

帰宅して食卓を見ると「狂犬病予防注射のお知らせ」が区役所から届いていた。なになに、と見ていたら、カミサンが「それは犬のよ、あんたには2倍注射してほしいよ、まったく!」。
実にカミサンはうまいことを言う。座布団3枚をやりたいくらいだ。
小生は暴力(武力発動)の効能を信じている。「戦争で解決していたことが、“戦争はダメだ”となったから、解決できないことが多い。戦争すべし、自然なら」と山本夏彦翁は言っていたが、昔から話し合いで解決できなければ武力に訴えて解決したものである。
小生は多分、単純脳細胞で、これと決めたら後先を考えずにトコトン突っ走るタイプだから、まあ、武闘派なのだろう。
20歳の頃、三里塚・芝山連合空港反対同盟とほぼ1年間、行動を共にしていたが、内田寛一・行動隊長(当時60歳)が東京・日比谷野外音楽堂での集会で挨拶をするというので、小生は内田氏の護衛として同行するように命じられた(1971年)。
内田氏は中核派寄りだったから革マル派が襲う危険があった。小生は我が身を盾とし、命懸けで内田氏を守るのが仕事である。寸鉄身に帯びず、捨て身で防御するのが仕事である。
勝海舟の「氷川清話」に“人斬り以蔵”の話がある。有名な話だが、再録させていただく。
<文久3年の3月に家茂公(14代将軍)がご上洛なさるについて、そのころ京都は実に物騒で、いやしくも多少議論のある人はことごとくここに集まっていたのだから、将軍もなかなか厳重にしておられた。
この時おれも船でもって上京したけれど、宿屋がどこもかしこも詰まっているので、しかたなしにその夜は市中を歩いていたら、ちょうど寺町通りで3人の壮士がいきなりおれの前へ現れて、ものもいわず切りつけた。
驚いておれは後ろへ避けたところが、おれの側にいた土州の岡田以蔵がにわかに長刀を引き抜いて、1人の壮士を真っ2つに斬った。「弱虫どもが、何をするか」と一喝したので、あとの2人はその勢いに辟易して、どこともなく逃げていった。おれもたっとのことで虎の口をのがれたが、なにぶん岡田の早業には感心したよ。
後日、おれは岡田に向かって、「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動(ふるまい)は改めたがよかろう」と忠告したら、「先生。それでもあのとき私がいなかったら、先生の首は既に飛んでしまっていましょう」といったがこれにはおれも一言もなかったよ>
カミサンの父親はとてつもない乱暴者もどきだった。「ジャリンコちえ」の親父さんみたいな人だ。趣味は猪(いのしし)猟で、散弾銃とライフルを持っていたが、酔ってゲキコウすると天井に向けて散弾銃をぶっぱなした。
そういう環境に育ったから、小生が前科持ちだなんてカミサンは全然気にしなかった。「ふーん、そうなの。でも、あたしの父さんのほうがすごいよ」と、今でも父親を「畏敬」してやまない。
カミサンにとって小生は、まあ、ちょっと行儀に悪いペットなのかもしれない。
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