1719 オバマ氏のある日の演説(上) 平井修一

米国の大統領選挙に関し、日本の保守論客は共和党のマケイン氏が選出されることを願っているだろう。
先の大東亜戦争で日本にジェノサイドを仕掛け、占領後に赤化とまではいかずともピンクに染め上げたのは米国民主党で、その民主党のオバマ、ヒラリー氏のいずれが民主党大統領候補に選ばれようが、最終的にはマケイン氏が大統領になることを切望しているだろう。
日本の国益を考えれば、中共べったりのヒラリー氏は最悪で、せめてオバマ氏が民主党候補に選出されてほしいものだと私も思うが、オバマ氏は一体何者なのか。同氏のサイトから、ある日の演説を紹介する。それにしても彼の演説は格調高く、ただものではないと痛感した。(一部意訳)
オバマ上院議員の言葉:『より完全な統合を』フィラデルフィア(PA)、2008年3月18日
「我々が、より完全な統合をするために」。
221年前、通りの向こうにまだ立っているホールに一団の男性が集まり、これらの簡潔な言葉をもってアメリカの民主主義における困難な実験を開始しました。
農民と学者からなる人々、すなわち専制政治と迫害を逃れるために海を渡ってきた政治家と愛国者は1787年の春、フィラデルフィアで独立宣言を発しました。
彼らが提示した文書は連署されたものの、最終的には未完成でした。それは奴隷制度という、この国の原罪を汚点としていました。奴隷売買を少なくとももう20年間続かせることとし、将来の世代に最終的な解決を委ねたのです。
もちろん、奴隷制度問題に対する答えは、我々の憲法のなかですでに葬られました。憲法のまさに核心が、法律の下の平等の市民権という理想です。しかし、人々に自由、正義、そして国民統合を約束した憲法を(現実のものとして)仕上げなければなりません。
羊皮紙に書かれた(独立宣言の)言葉は、奴隷を束縛から救い出すのに、あるいはアメリカ合衆国の国民として、すべての肌の色と信条の男性と女性に彼らの完全な権利と義務を提供するというには十分ではありませんでした。
必要なことは、連綿とした世代のアメリカ国民の努力でした。抗議と闘いの中で、通りで、裁判所で、南北戦争と市民的不服従を通して、そして、常に大きな危険を通して、我々の理想と現実のギャップを埋める努力でした。
これは、我々がこの選挙キャンペーンの始めに設定した仕事のうちのひとつでした。我々に先行した人々の、より正当で、より平等で、より自由で、より愛情深くて、より繁栄しているアメリカのための長い行進を続けること。
私は歴史のなかの今、大統領に立候補することを選びました。我々が一緒に解決しない限り、我々の統合を仕上げない限り、我々の現在の問題を解決することができないと深く思っているのです。
我々は異なる物語を持っているかもしれないが、しかし、我々は共通の望みを持っている。我々は見た目は違うだろうし、来し方も同じではなかったかもしれません、しかし、みなが同じ方向に動きたいのです。我々の子供たちと我々の孫のためのより良い未来という方向です。
この信念は、米国民の良識と寛容に対する私の頑な信仰から来ています。しかし、またそれも私自身のアメリカの物語に由来するものです。
私は、ケニヤ出身の黒人とカンザス出身の白人女性の息子です。私の白人の祖父は、第2次世界大戦の間にパットン将軍の軍に務め、祖父が海外にいる間、白人の祖母はフォート・レヴェンワースの爆撃機組立てラインで勤労奉仕をしていました。
私は彼らの助けを借りて進級しました。私は世界最貧困国のうちのひとつに住んでいましたが、アメリカで最高の学校のいくつかへ進学しました。私は黒人のアメリカ人と結婚していますが、彼女の血族には奴隷と奴隷所有者の血が流れており、我々2人の大切な娘にもそれが引き継がれています。
私には兄弟、姉妹、姪、甥、おじといとこがありますが、3つの大陸にまたがるあらゆる人種とあらゆる肌の色からなっています。そして、私が生きている限り、地球の他のいかなる国でも私の物語は実現できることを決して忘れません。
それは、従来の候補者になかった物語です。しかし、それは私の遺伝子に、この国が様々な民族、人種の単なる集合体以上のものであるという考えを植えつけました。我々は本当に(民族、人種を超えた)ひとつの米国民なのです。
この選挙キャンペーンの最初の年を通して、予測に反して、我々は米国民が統合のこのメッセージをどれくらい強く求めているかについて見てきました。
人種的な色眼鏡によって私の立候補を見たいという誘惑にもかかわらず、我々は米国で最も白人比率の高いいくつか州で圧倒的な勝利を得ました。
南部連合の旗が未だにはためくサウスカロライナでは、我々はアフリカ系アメリカ人と白人のアメリカ人の強力な連立を築きました。
これは、人種が選挙キャンペーンのテーマではなかったと言うことではありません。キャンペーンのいろいろなステージで、一部の解説者は、私を「あまりに黒い」か「十分に黒くない」と考えました。
我々は人種に関る緊張がサウスカロライナ予備選挙の前週に表面に泡立つのを見ました。メディアは人種的な分極化の最新の証拠を求めて、あらゆる出口調査をしました。
が、この選挙キャンペーンの人種に関する議論が特に対立を生じる動きをしたのは、最後の2週間だけでした。
私の立候補が(国民統合へ向けての)積極行動の実践というを声もありました。これは人種的な和解を安上がりに購入することができるという自由主義者の希望だけに基づく見方です。
その一方で我々は、私が師事するジェラマイア・ライト師の話を聞きました。人種的な分裂のみならず、我が国の偉大さと長所を中傷する見解を広げるような表現があり、白人と黒人をともに怒らせました。
私は明確な言葉で、そのような論争を引き起こしたライト師の発言をすでに批判しました。いくつかの質問があることは承知しています。彼がアメリカの内政と外交の方針を時に激しく批判するということを知っていましたか? 「もちろん知っていました」。
教会に座っている間、論争になると思われるような発言を聞きましたか?「はい、聞きました」。彼の政治的な意見の多くと一致しませんでしたか? 「確かに一致しないことはありました」。
皆さんにも牧師、聖職者、ラビからまったく同意できない話を聞くことはあるはずです。
しかし、この最近の「炎上」を引き起こしたライト師の意見は、単に論争の的でありませんでした。それらは、不正に対する宗教指導者の意見と言うより、この国の非常にゆがめられた現実を表しました。
特有のごとくに白人(優先)主義を見る、アメリカの美点以上に欠点をあげつらう、そして中東での紛争の原因を、過激なイスラム教の邪悪なイデオロギーではなく、イスラエルなどの同盟国の行動に根ざしているとする見解。
ライト師のコメントは間違っているだけでなく、対立を生じさせもしました。我々がともに象徴的な問題を解決するために統合を必要とするときに対立を生じさせました。
2つの戦争、テロの脅威、低迷する経済、慢性的な健康危機、潜在的かつ破壊的な気候変動。いずれも黒人、白人、ラテンアメリカ系、アジア人でもない問題であり、むしろ我々みんなが立ち向かうべき問題です。
私の背景、私の政治観、私の価値観と理想を見てもらえば、ライト師を批判した私の声明で十分だろうと思いますが、なぜライト師に師事するのかと聞かれるかもしれません。
他の教会になぜ加わらないのか、と。私がライト師について知っていたすべてが、テレビとYou Tubeで果てしなく流されているような断片的な説教のごとくであるならば、 あるいは三位一体統一キリスト教会(トリニティ教会)が一部の解説者が言うように漫画的であるのならば、私も全く同様に反応することは疑いないと認めます。
しかし、本当は、それが私が知るライト師のすべてであるというわけではありません。私が20年以上前に会ったライト師は、私にキリスト信仰の洗礼を施した人であり、お互いを愛する義務について話した人であり、病人をケアし、貧しい者を助けることを説いた人です。
彼は、国のために海兵隊として務めた人です。勉強して、我が国で最もすばらしい大学と神学校のいくつかで説教してきた人です。
30年以上、コミュニティに貢献する教会を導き、ホームレスに住宅を与え、貧窮者を助け、デイケアサービス、奨学金、刑務所慰問、エイズ患者に手をさしのべるという、神の仕事をこの世でしてきた人なのです。
私の最初の本「父からの夢」で、私はトリニティ教会での私の奉仕活動の経験を書きました。
「人々は歓声をあげ、席から立ち上がって拍手しました。そして牧師の声が力強い風となって吹いてきました。それは希望そのものです。私は素晴らしい感動を十字架のもとに見、街の多くの教会で聞きました。
私はダビデとゴリアテ、モーゼとファラオの物語、ライオンの巣のキリスト教徒、エゼキエルの野と(いう聖書の物語が)、普通の黒人の人々の物語と合流することを想像しました。
それらの物語、すなわち「生と自由と希望」の物語が我々の、そして私の物語になったのです。聖書で流された血と涙は、そのままに我々の血と涙でした。この黒人教会は将来の世代と、より大きな世界に人々の物語を伝える船のようでした。
我々のユニークな試みと勝利はすぐに一般的になりました。我々の旅をたどれば、物語と歌が、我々が恥入る必要はなかった記憶を取り戻させてくれます。すべての人々が大事にするだろう記憶をもって我々は自らを再構築し始めることができたのです」
これがトリニティ教会での私の経験でした。米国中の他の黒人教会のように、トリニティ教会は完全に黒人社会を代表しています。医者もいる、福祉のお母さん方もいる、模範的な学生もいれば元暴力団員もいる。他の黒人教会のようにトリニティ教会での活動は笑い声と時々猥雑なユーモアであふれています。
ダンス、拍手、歓声でいっぱいで、慣れないと耳障りかもしれません。教会には親切と虐待、驚くほどの知性と衝撃的な無知、闘いと成功、愛と同意、苦さと偏り、つまりアメリカの黒人が経験する要素がそこにはあります。
これはライト師と私の関係を説明するのを助けてくれるでしょう。彼は不完全かもしれませんが、彼は私にとって家族同然でした。
彼は私の信仰を強固にし、私の結婚式を司り、私の子供たちに洗礼を施しました。彼と私の会話において、彼が侮蔑的な言葉で人種について話したりすることはありませんでしたし、彼が白人と話す際にも礼儀と敬意をもって接していました。
彼は永年、一所懸命に奉仕したコミュニティのなかにある矛盾、清濁を彼自身も心の中に抱えていたのです。
私は、黒人社会を否定・無視することができないのと同様にライト師との縁を切ることができません。私は白人の祖母と同様に彼との縁を切ることができません。
祖母は私を引き上げ、何度も私のために身を粉にしました。かけがえのないほどの愛情を注いでくれました。しかし祖母は、かつて通りで彼女とすれ違った黒人について「恐かった」と語り、人種的、民族的な固定観念を口にして私を困惑させたこともあります。
これらの人々と私も同属です。彼らが、私が愛するアメリカを構成しているのです。
これをもって、ライト師の許しがたいコメントを正当化するのか、ライト師を許すのかと言う人もいるでしょう。私は「そうではない」と確約します。私はこのエピソードから、まっとうな政治が始まると思っています。
原木が木工品へと加工されるように進むことを望みます。ジェラルディーン・フェラーロ氏(ニューヨーク市長)を辞任に追い込んだように、ライト師をデマゴーグとして断罪しようという彼女(ヒラリー氏)の最近の声明も承知しています。
しかし、人種問題は、私がこの国にあって無視することができないと思っている喫緊の問題です。ライト師がアメリカについての説教においてした同じ間違い(離反)を、我々はしてはいないでしょうか。現実をゆがめるような否定的な面を単純化、ステレオタイプ化して問題を拡大することは避けなければなりません。
実のところ、いくつかのコメントと、ここ数週間にわたって浮上した問題は、我々が蔑ろにしてきた人種問題の複雑さを反映しています。我々の連邦の一部ではまだ仕上げができないままです。
我々が問題から逃げ、それぞれのコーナーへ退くならば、我々は決して力を合わせて医療や教育のような、アメリカにとって必要な難問を解決することはできません。
この現実を理解することは、我々の来し方を思い出させることになります。ウィリアム・フォークナーはかつてこう書きました。「過去というものは死んでもいないし埋葬されてもいない。
実際のところ過去とはとても言えない」。人種的な不正の歴史をここで復唱する必要はありません。
しかし、我々は今日、アフリカ系アメリカ人のコミュニティの中に存在する格差の多くが、奴隷制度とジム・クロウの残忍な初期の歴史に由来することを思い出す必要があります。(つづく)
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