1763 憲政の神様の落選 渡部亮次郎

日本の国会議事堂に行けば、正面玄関ホールに尾崎行雄の胸像に会える。また振り向けば、道路を挟んだ向かい側に尾崎行雄記念館(憲政記念館)がある。あまりに昔の人だからか、会館は利用者が少なく、赤字だとの噂だ。
政治記者になれば当然、尾崎の胸像に面会し「憲政の神様」を改めて学ぶ事になるが、尾崎の政界引退が、吉田茂による「バカヤロー解散」による落選だったとは知らなかった。4月19日。今から55年前、1953年(昭和28年)の今日である。
尾崎行雄おざき ゆきお、安政5年(戸籍上は翌6年の旧暦11月 20日)11月20日(1858年12月24日) – 1954年(昭和29年)10月6日)は、日本の政治家。
当時の三重県2区(宇治山田市、松阪市など)で定員4人のところ、前回より8000票も減り27,021票、6位で落選した。赫々たる憲政の実績は次第に忘れ去られていたのである。95歳では無理だった。
号は咢堂(がくどう。最初学堂。愕堂を経て咢堂)。相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市津久井町又野)生まれ。称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。
11歳まで又野村で過ごした後、官吏となった父・行正に従い、1868年(明治元年)に東京・番町の平田塾にて学び、一家も1871年(明治4年)に高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ。そこで初めて「学校」に入った。
その後、1872年(明治5年)に度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を移す。行雄も宮崎文庫英学校に入学した。1874年(明治7年)に弟と共に上京し慶應義塾童児局に入学する。
しかし塾長の福沢諭吉に反抗して退学、1876年(明治9年)に工学寮(のち帝国大学工部大学、現・東京大学工学部)に再入学する。
1882年(明治15年)大隈重信の立憲改進党の創立に参加、1890年(明治23年)第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる。
その後、進歩党・憲政党に属した。この間第2次松方内閣において外務大臣に就任した大隈の推挙で外務参事官に就任するが、大隈と首相の松方正義が対立するとともに辞任した。
1898年(明治31年)第1次大隈内閣において40歳の若さで文部大臣に就任するも、所謂共和演説事件で文相を辞任し、その後任を巡って憲政党は分裂、大隈内閣も総辞職した。
その後、憲政本党に属していたが、伊藤博文の立憲政友会結成に呼応して憲政本党を離脱して政友会入りするが、その後伊藤とも対立して離党、その後猶興会などを経て政友会に復党とめまぐるしく所属政党を変遷する。
1903年(明治36年)から1912年(明治45年)まで東京市長、1914年(大正3年)の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、桂太郎首相を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。
だが、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党し、以後中正会・憲政会・革新倶楽部と移る。第2次大隈内閣では司法大臣となる。
当初は対外硬派として知られたタカ派であったが、第1次世界大戦後のヨーロッパ視察で戦争の悲惨さを見聞して以後は、一貫した軍縮論者となった。
また、ポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であったが、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動などを支援した。
また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿勢を示したが、政界では次第に孤立していった。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)には非推薦出馬で当選。
1943年(昭和18年)、翼賛選挙批判を行った演説中に引用した川柳「売家と唐様で書く3代目」が昭和天皇の治世を揶揄するものであるとされ不敬罪で起訴される(一審で有罪、1944年(昭和19年)大審院で無罪確定)。
公判通知を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて”愕”のりっしんべんを取り咢堂とした)。
戦後の国会でも活躍して民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力するが、1953年のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙 1953年4月19日)で落選して、政界を引退した。名誉議員の称号を贈られる。
1950年には英語国語化論を提唱したこともある。
1954年(昭和29年)10月6日、直腸ガンによる栄養障害と老衰のため死去。享年96。墓所は鎌倉の円覚寺。
永年在職議員表彰第1号、衆議院名誉議員(50年以上の議員在職者。衆院の正面玄関に胸像を建立)第1号、東京都名誉都民第1号。
相模原市津久井町と伊勢市に、それぞれ尾崎咢堂記念館がある。伊勢神宮に隣接する合格神社に神として祀られている。また、国会前庭の敷地内にある憲政記念館は尾崎の功績を称えて建設されたものである。
東京市長在任中にアメリカ合衆国へソメイヨシノ2000本を贈り、ポトマック川に植樹された。だがこれらのソメイヨシノは虫害によって焼却されてしまい、後に3100本の桜が新たに植樹されている。
難民を助ける会創立者の相馬雪香は、英国育ちの妻テオドラとの間に生まれた三女。
「牧野伸顕日記」昭和6年(1931年)2月17日条によると、内大臣牧野伸顕(大久保利通の息子)が尾崎と会ったときにその口から
「我々は青年時代に薩長政府を悪み英国流の議会政治に如くものはなしと思込、多年奮闘し来りたるが、事志と違ひ今日の現状に直面して慙愧に堪へず抔、薩長政府は国家を念頭に置き働きたるが、今日は議会抔に国家を思ふもの一人もなし」
という言葉を聞いて深刻に受け止めた事を書き記している。この時期の尾崎の失意の心情を伺わせる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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