1772 両国高校脇の通り 渡部亮次郎

明治34年創立の府立3中を前身とする都内を代表する名門校、正門横には卒業生芥川龍之介の碑がある、といえば都立両国高校。拙宅から徒歩10分ぐらい。
「現役で大学進学」が目標として掲げられる。土曜授業の導入、多数の講習や特別編成授業の実施などが行なわれており、高い現役進学率を維持している。
この名門高校の横を走っている道路が「大門(おおもん)通り」と呼ばれる片側1車線の細い通り。遊里吉原(よしわら)の大門と嘗ての洲崎(すざき)パラダイスの大門を結んだ通りだったから。吉原はともかく洲崎は洲崎弁天町2丁目となってはいるものの面影はない。
昔の遊女。売春婦は昭和33(1958)年3月31日を限り売春防止法施行により消滅した事になっているが、そこはそれ、法律は厳しく制定し、取り締まりは緩いことが特徴の日本。誰も信じてはいない。
売春婦は俗に世界最古の職業と言われるが、日本の遊女も古くから存在していた。
近世になると、遊女屋は都市の一か所に集められ遊郭が出来た。1584年(天正13年)、豊臣秀吉の治世に、今の大阪の道頓堀川北岸に最初の遊廓がつくられた。
その5年後(1589年 天正17年)には、京都柳町に遊廓が作られた。徳川幕府は江戸に1612年(慶長17年)日本橋人形町付近に吉原(葦原)遊廓を設けた。
17世紀前半に、大坂の遊郭を新町(新町遊廓)へ、京都柳町の遊郭を朱雀野(島原遊廓)に移転した他、吉原遊廓を最終的に浅草日本堤付近に移転した。
島原、新町、吉原が公許の3大遊郭(大阪・新町のかわりに長崎・丸山、伊勢・古市を入れる説もある)であったが、ほかにも全国に二十数カ所に公許の遊廓が存在し、各宿場にも飯盛女と言われる娼婦がいた。
敗戦翌年の1946年にGHQの指令により遊郭は廃止され赤線に看板を変えるが、これも1958年売春防止法の施行によりいったんは消滅した。
しかし、その後「トルコ風呂」という形で復活し、その後トルコ青年の抗議で業界団体がソープランドなどとして同じ地に続いているところもあり、旅館などの一部にも、わずかだが宿泊業務と別にいまだ同様のサービスをしている所もある。
戦後に存在していた東京近郊の赤線地帯。赤線を知らない人のため。
 
吉原
浅草の北に位置し、江戸時代の花魁(おいらん)の頃からの花街である。吉原大門という交差点の表示に、わずかばかりの名残が見受けられる。明治後期の大火、関東大震災、東京大空襲で灰塵に帰し、戦後は赤線区域に転落。現在も仲之町通り一帯は高級ソープ街として有名。
 
洲崎パラダイス
東西線の木場駅より、南方の川を渡った一画。洲崎弁天町2丁目。芝木好子の小説「洲崎パラダイス」でその名を知られた一大花街の名残は、一杯飲み屋などに見受けられる。街のはずれがすぐ、海だった頃の面影はもうない。
 
品川
京急北品川駅より、南方に旧東海道を下ったあたりに点在していた。戦時中に老舗の遊郭はすべて廃業。戦後は年増が多く、地味な存在であった。
 
柳新地
北千住の駅から荒川に沿って、日光街道を過ぎると大門通に出る。そこがかつての赤線であった。主に農村出身者相手の商売で、格は低かった。
 
新宿2丁目
新宿3丁目駅より御苑方面に向った一帯。料金は割高で女性のレベルも高い花街だった。廃業後はいつしか男娼が集まりだし、いまや国内最大の男娼街と化している。
 
亀戸
亀戸駅より蔵前橋通りへ抜け、横十間川に沿った亀戸天神の真裏。浅草にあった売春窟が関東大震災で移転。戦災で全焼後は地元民相手の商売に落ち着いた。
 
丸健
新小岩駅南口。松島3丁目の一帯。亀戸の売春窟が、空襲後に一部移転したもの。当時のこの付近は田園地帯だった。
 
東京パレス
小岩駅から南方に、新中川近くの二枚橋付近。企業の女子寮を転用しただけあって、他の赤線とはまったく異なる雰囲気を持っていた。現在は跡形もない。
 
立石
京成立石駅の商店街そばに点在。亀戸の売春窟が、空襲後に一部移転したもの。当初は米兵相手の商売だった。
 
亀有楽天地
亀有駅南口の一画。玉の井の売春窟が、移転してきたもの。企業の寮を改装したものであった。周囲は田園地帯だった。
 
鳩の街
東武線曳船駅から隅田川方面。玉の井と向島の間に位置する花街は、戦後栄えに栄えた。素人に近い女性が多く、それが売りでもあった。
 
玉の井
東武線東向島駅の東口一帯。関東大震災で浅草の売春窟が壊滅、その一部が動いたものだが、無計画な建築だったため、さながら迷宮のような風情があった。しかし東京大空襲で全焼。戦後、再開されたが、かなり地味な存在に落ち着いた。
 
武蔵新田
東急武蔵新田駅のマルエツ側。終戦直前に出来た花街で、大きなアパート3軒で営業を行っていた。女性の平均年齢は極めて若かった。
 
調布仲町
京王線調布駅を甲州街道方面へ向かう一帯。存在時期は大変に短かった。つげ義春の作品で有名に。
 
八王子
八王子駅北口を出て、浅川河川敷付近の一帯。明治時代よりの花街で、戦後も昔ながらの面影を宿していた。年増が多いのが特徴だった。
 
錦町楽天地
立川駅と西国立駅の間。現在も地名が残っている。立川に飛行場があったので飛行機乗りの客が多かった。
 
羽衣新天地
西国立駅の東口の一画。現在も地名が残っている。都営住宅のような造り。
 
川崎南町
京急川崎駅より南方、警察署、消防署の位置する一画。堀の内よりも歴史は古かったが、現在は微かに街のたたずまいに面影を残すのみである。
 
川崎堀の内
京急川崎駅より南口。羅生門横丁と呼ばれた、凄まじい客引きの売春窟として名を馳せた事もある。現在も一大ソープ街。
 
曙町
伊勢佐木町より大通り公園寄りの一帯。戦後に出来た新興の花街。横浜を代表する規模を誇っており、現在もヘルス発祥の地として、親不孝通りの異名を持つ。
 
永真花街
地下鉄伊勢佐木長者町駅を横浜橋方面、真金町、永楽町の一帯。明治時代よりの遊郭で、関東大震災までは横浜の吉原の威勢を誇っていた。空襲でも焼失したが、戦後も復活。現在は住宅街に。
 
本牧チャブ屋街
本牧通りを山手警察署の裏手にまわった一帯。ダンスホールがひしめき、谷崎潤一郎の「痴人の愛」や淡谷のり子「別れのブルース」などの舞台にもなった。現在は草野原。
 
安浦
京急安浦駅を出て、海寄りへ行った一画。米兵など相手の商売で、戦後は横須賀随一の花街だった。現在はほとんど名残をとどめていない。
 
皆ヶ作
京急田浦駅より安針塚駅寄りに行った一帯。長浦港の近くであるが、現在は裏寂れた飲み屋がわずかに点在するのみ。
 
初音新地
小田原駅南方の新玉4丁目。古くからの花街だったが、現在は跡形もない。
 
抹香町
小田原駅南方の新玉3丁目。歴史は新しい。川崎長太郎の一連の作品群で名を知られる。花街はないが、周辺の食い物屋などは、ほとんど健在。
 
平潟
松戸駅西口から、江戸川河川敷より樋古根川に沿った一帯。江戸時代よりあった花街だが、戦後、早い時期に廃業。学生寮の街へと異色の変わり身を見せた。
 
船橋新地
船橋駅南口より千葉街道手前の一画。成田参詣の客を相手にした、江戸時代よりの花街。現在もソープランドやストリップ劇場が残る。
 
大宮新地
大宮駅東口を出て、大栄陸橋より北側の一画。平和通りと名を変えたが、現在もソープ街として知られる。
 
熊谷伊勢町
上熊谷駅近くの旧荒川堤沿いの一帯。周囲は桑畑だったが、現在は住宅街に。近年まで旅館が点在し、辛うじて名残をとどめていた。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』及び『誰か昭和を思わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history04/33b.html
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