チェルノブイリ原子力発電所事故は、22年前の1986年4月26日1時23分(モスクワ時間)にソビエト連邦(現 ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉が起こした原子力事故。
4号炉はメルトダウンののち爆発し、放射性降下物がウクライナ・ベラルーシ・ロシアなどを汚染した。事故後のソ連政府の対応の遅れなどが重なり被害が甚大化・広範化し、史上最悪の原子力事故となった。
この規模の原発事故は前例がなく、世界の原子力開発で史上最悪の事故といわれている。
長期的な死者数は、事故の放射線被曝とガンや白血病との因果関係を直接的に証明する手段はなく、科学的見地から根拠のある数字というのは示されておらず、数百人とも数十万人とも言われる。
2000年4月26日の14周年追悼式典での発表によると、ロシアの事故処理従事者86万人中5万5千人が既に死亡した。ウクライナ国内(人口5千万)の国内被曝者総数342・7万人の内、作業員は86・9%が病気にかかっている。周辺住民の幼児・小児などの甲状腺癌の発生が高くなった。
当時、爆発した4号炉は休止中であった。原子炉が止まった際に備えた実験を行っていたところ、制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。この爆発により、原子炉内の放射性物質が大気中に大量に(推定10t前後)放出された。
その放出量は莫大であり、かつて広島に投下された原子爆弾の500倍とも言われている。
当初、ソビエト連邦政府は住民のパニックや機密漏洩を恐れこの事故を公表しなかった。そのため、何も知らない付近住民は避難もさせられないまま甚大な量の放射線をまともに浴びることになってしまった。
しかし翌4月27日、スウェーデンのフォルスマルク原子力発電所でこの事故が原因の放射性物質が検出され、4月28日、ソビエトも事故の公表に踏み切った。日本でも、5月3日に雨水中から放射性物質が確認された。
爆発後も火災は続き、消火活動が続いた。アメリカの軍事衛星からも、核の火に赤く燃える原子炉中心部の様子が観察されたという。ソビエト政府によれば、5月6日までに大規模な放射性物質の漏出は終わったとされる。
死者はソビエト政府の発表では運転員・消防士合わせて31名だが、事故の処理にあたった予備兵・軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認されている。
事故によりチェルノブイリ周辺は高濃度の放射性物質による汚染により居住が不可能になり、約16万人が移住を余儀なくされた。避難は4月27日から5月6日にかけて行われた。
ソ連の発表によると、事故から1ヶ月後に原発から30km以内に居住する約11万6千人すべてが移住したという。しかし、老人などの中には生まれた地を離れるのを望まなかった人もおり、このような一部の人は移住せずに生活を続けた。
爆発した4号炉をコンクリートで封じ込めるために、のべ80万人の労働者が動員された。4号炉を封じ込めるための構造物は石棺(せっかん)と呼ばれている。
事故後、この地で小児甲状腺癌などの放射線由来と考えられる病気が急増しているという調査結果もある。
爆発事故による放射性物質による汚染は、付近のウクライナだけでなく、隣のベラルーシ、ロシアも多かった。
事故の原因については炉の特性による予期せぬ事態の発生と、作業員の不適切な対応が災いし、不安定状態から暴走に至り、最終的に爆発した。
当初ソビエト政府は、事故は運転員の操作ミスによるものとしたが、のちの調査結果などはこれを覆すものが多い。重要な安全装置の操作が、運転員の判断だけで行われたとは考えにくく、実験の指揮者の判断が大きかっただろうと考えられる。
爆発時、炉心内部の放射性物質は推定10t前後大気中に放出され、北半球全域に拡散した。周辺地域の家畜に放射性物質が蓄積され、肉、ミルク等も汚染された。
日本では、この事故をきっかけに原子力発電そのものに対する一般市民の不安が急増した。このため、政府は、日本の原子炉はアメリカ型で、事故を起こしたソビエト型とは構造が異なり、同様の事故は起きないという説明を行った。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
杜父魚ブログの全記事・索引リスト(4月20日現在1782本)
1780 広島原爆500倍の放射能 渡部亮次郎

コメント