1786 古典に叡智を学ぶ 平井修一

デカルトは1600年代、日本では江戸時代の元和、寛永時代のフランス人だが、当時は世界にあるすべての本を読破することは可能だった。論語から聖書、コーラン、仏教、さらにはマルコポールの「東方見聞録」、マキャベリの「君主論」などを含めても1000~5000冊ほどだったら読破は物理的に可能である。
デカルトはその多くを読んだ。重要な本は多分、西洋の共通語・ラテン語などに翻訳されているから不自由はなかったろう。
そしてデカルトは言うのである。
「もはや1行も1句も付け加えることはない」
人類の叡智は、絞りに絞れば1000冊の文庫本になりはしまいか。優れた本は古典として営々と読み継がれるから、我々は古典を読んでいる限りは「読書道」を踏み誤らない。デカルトのように先人の教えに感服すること、しきりである。
カール・ヒルティ曰く「私は生者よりもむしろ故人と精神的に交際し、現存の人よりも数百年前に生きた人々のほうをよりよく理解した」。
そのヒルティの「幸福論」を今も読んでいる。布団の中で、トイレの中で、電車の中で「つまみ読み」をする。どういうわけか机に座って読む習慣はない。その「幸福論」に面白い一節を見つけた。(注)は平井による解釈。
<時間が有り余るほどないということは、我々が地上で到達しうる幸福の最も重要な要素である。人間の幸福の最大部分は、たえず続けられる仕事(注:賃労働のみではない)と、これに基づく祝福とからなっている。
そしてこの祝福は最後に、仕事を喜びに変えるものである。人の心は、その正しい仕事を見出したときほど愉快な気分になることはない。
人は幸福になりたいと思うならば、何よりも正しい仕事を探すがよい。失敗の生涯はたいてい、その人が全然仕事を持たないか、仕事が少なすぎるか、あるいは正しい仕事を持たないことに、その根本の原因がある。>
ヒルティがこの本を書いた(1891年)よりも早く福沢諭吉翁も「学問のすすめ」で同じ趣旨のことを言っているが、まことにこの一節は真実である。珠玉の言葉を見つけたときほど読書の才能が身についてよかったと思うときはない。刑務所暮らしはムダではなかったのだ。
今秋、いよいよ初孫を迎えようという「初期高齢者」(前期、中期、後期、末期、あの世い期ってか)の小生にとって、ビジネス以外の仕事とは、ネットを通じた情報発信である。
子育てが終わってノンビリしてもいいのだが、幸いにも仕事がどっさりあり「時間が有り余るほどない」。忙しいのは結構なことである。
情報発信の最大の目的は「日本を普通の国にする」こと。軍事と外交、歴史と伝統、大和心を取り戻し、あわせて共産主義を一掃することである。
若い人よりも先人・故人の叡智には触れてきたので、その受け売りかもしれないが有用な情報を発信し、少しでも我が国と世界のために役立ちたいなあと思っている。
ヒルティは共産主義を「嫉妬に根ざし、憎しみを煽る」と看破している。1917年のロシア革命から90年、49年の中共革命から60年。共産主義との百年戦争に決着をつける秋(とき)である。マルクス主義経済学を専攻したこともまたムダではなかったのだと思いたい。
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