新田潤が亡くなって30年の歳月が経った。五月十四日が命日。本名は半田祐一、母と同郷の上田市出身ということもあって、戦前から付き合いがあった。「日暦」という昭和文学史に燦然たる光芒を放つ同人雑誌がある。そこの集まりに新田氏がある日一人の大学生を連れてきた。
「上手な小説を書いている」と新田氏から紹介された人が田宮虎彦。そんなこともあって日暦・人民文庫時代には、新田氏や田宮氏がわが家によく遊びにきていた。父・古沢元は新田氏の作風を意識したと日記に書き遺している。田宮氏は東大をでて都新聞(東京新聞)の学芸部記者になり小説を書き続けた。
新田氏が「日暦」に発表した”煙管”という小説は、日本のゴーゴリが現れたという高い評価を得ている。この小説の影響を受けて古沢元は”びしゃもんだて夜話”の連載を書いたと告白している。同じ頃、高見順は”故旧忘れ得べき”の出世作を「日暦」に連載しはじめた。
新田氏は、その後「文学界」に”片意地な街”を発表して新進作家としての地位が固まった。郷里の上田市を”片意地な街”として描いてみせた。新田氏は旧制上田中学から旧制浦和高校に進学した秀才。東京帝国大学文学部時代から文学活動に専念して「文芸交錯」で知り合った高見氏とは無二の親友になった。
敗戦後、カストリ雑誌が氾濫した時代に新田氏は売れっ子の作家となった。その新田氏に対して「新田は一夜漬けのような小説を書き飛ばしている。そんな作家ではない筈だ」と高見氏は苦言を呈した。
その頃、新田氏の借り住まいを訪ねたことがある。二階の日本間でカストリ雑誌の注文原稿を書きながら「小説を書きたいのだが、何を書けば良いのか分からない」と泣き言をいう私に「中学生だから経験不足なんだよ」と優しい顔で諭してくれた。
その時に「田宮虎彦は上手な小説を書くが、本当の小説を書くのはこれからだよ」と話をしてくれた。私が大学をでて東京新聞を受けたのは、新田氏から「田宮君も東京新聞の学芸部にいた」と教えて貰った影響があった。
しかし新田氏の小説は戦争時代や疎開騒ぎなどで多くの作品が絶版となり、散逸してしまっている。「人民文庫」の初版雑誌そのものが、バックナンバーを揃えて残っているのは渋川暁氏と私のところだけではないか。「日暦」も揃っていたが、母が高見氏に貸したまま行方不明となっている。
新田潤生誕100年を機に、新田文学の主なものを選んで出版されている。四年前のことになる。新田氏は明治37年9月18日生まれ、高見氏や古沢元より三歳年上に当たる。いぶし銀のような人柄の新田氏のことを、アンドレ・ジイドの親友だったシャルル・ルイ・フィリップの様だと思ったことがある。五月には新田文学を再読して過ごすつもりでいる。
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