1804 天安門事件と胡錦濤 古沢襄

中国の胡錦濤国家主席は六日に来日するが、今の日中の政治状況は一九八九年の天安門事件の当時を思わせる。信じられない様だが、天安門事件で欧米諸国が厳しい対中国制裁を行ったのに対して、日本は一線を画している。チベット問題で欧米諸国が中国に厳しい眼を当てているのと似た状況だが、日本は胡錦濤歓迎ムード。
天安門事件における日本の態度に中国側は「誰が本当の友人であるか、よくわかった」と外務省高官が発言している。三年後の一九九二年には天皇・皇后両陛下の訪中まで行って、孫平化・中日友好協会長に「これで日中は過去を乗り越え、完全な友好国となった」とまで言わせた。
ところが、中国側はその舌の根が乾かぬ間に”反日”に転じている。これを二〇〇三年に突如行われた小泉元首相の三年連続の靖国神社参拝のせいにするのは容易い。しかし事実は”日中の蜜月”を壊したのは、主として中国の深刻な内政事情によることがわかっている。
天安門事件は世界に衝撃を与えたが、中国の国内でも共産主義の理想が色あせ、党の威信が傷ついた。改革・開放の民主化路線に理解を示していた鄧小平・党中央軍事委主席は、一転して民主化運動を武力鎮圧で押さえ込む道を選んでいる。
日本でも中嶋嶺雄氏らが「鄧小平ライン(鄧小平・李鵬・楊尚昆)の強硬派指導者は、まさに民衆の敵ととして永遠に糾弾される立場を自ら選んだ」と批判していたが、日本政府は中国との外交関係を後生大事に維持する姿勢から出ていない。
宇野元首相は六月六日(天安門事件は六月四日)に「日本は日中戦争という経緯がるので、西側諸国と同じ対応をするわけにいかない」と言った。外務省は六月七日に楊振亜・駐日中国大使を外務省に呼んで憂慮の念を伝える程度の対応でしかない。
西欧諸国のビジネス関係者が一斉に北京から引き揚げたにもかかわらず、日本企業は六月十二日に北京政府の宣伝用テレビに日本人ビジネスマンが登場して、改革と開放の政策は変わらないとする当局側の宣伝に手を貸した。(中嶋嶺雄「中国の悲劇})
これだけ中国寄りの態度に終始し、孫平化をして「日中は過去を乗り越え、完全な友好国となった」と言わせたのが、天安門事件によって失脚した趙紫陽に代わって党総書記になった江沢民の登場で過去の歴史上もっとも反日国家になった。
無名の前上海市長で上海市党委員会書記だった江沢民について、日本側にはマスコミを含めて十分な資料がなかった。
天安門事件に際して、いち早く上海改革派の週刊紙「世界経済導報」を発行停止処分にし、上海の列車焼き討ち犯を即決で死刑処分にするなど江沢民の果断なタカ派ぶりが、鄧小平らから高く評価されていたことは後にわかる。
それほど天安門事件は中国の政治体制を揺るがすものであった。その鎮圧のエースとして登場した江沢民は、さらに国内引き締めの道具として”反日姿勢”を選んでいる。教科書問題とか靖国参拝は反日の口実に用いられている。
江沢民の対日観は驚くほどドライである。日中に存在する友好派には情念ともいうべき歴史的な親近感がある。日本外務省にチャイナスクールがある様に中国外務省にあるジャパンスクールは、アジアにおける日中のパートナーシップを思い描いてきた。
しかし江沢民は腹心だった曾慶紅中央弁公庁主任を介してジャパンスクールの情念的友好を排して対日強硬路線に変えていった。江沢民にとって日中関係は優れて中国の国内問題だった。小泉元首相の靖国参拝は恰好の口実として利用されたので、靖国参拝がなければ教科書問題など他の火種はいくらでも探せた。
その江沢民が胡錦濤政権下でまだ隠然たる力を残している。この関係は江沢民政権下で鄧小平が隠然たる力を残した初期政権時代と似ている。この時に鄧小平は江沢民に次ぐ将来の後継者として胡錦濤をあげていた。
興味があるのは天安門事件のデモ収拾は、新しい江沢民国家主席や朱鎔基首相を表面に立てずに、国家副主席の胡錦濤が表面に出てテレビ演説をしていることであった。「過激な行動の出現を防止し、機会に乗じて正常な社会秩序を攪乱する者に警戒し、断固として社会の安定を確保しなければならない」という胡錦濤演説は、チベット問題ではなく一九八九年のものである。
胡錦濤は一九四二年に江蘇省姜堰に生まれる(祖籍は安徽省績渓)。一九八九年にチベット自治区の共産党書記に就任。一九八九年ラサに戒厳令を布告する。 当時のチベットは独立を求める民族独立運動が激しくなりつつあり、この運動を押さえ込むよう弾圧すべしとの共産党中央の基本政策に忠実に従い、党指導部の信頼を勝ち得た。(ウイキペデイア)
天安門事件に際しても、その民主化運動のチベットへの波及を防ぐために、ラサを戒厳令下に置いている。
胡錦濤の風貌から中国国内でも海外でも開明的なイメージでもって紹介されることがあるが、これまでの国内問題の処理をみるかぎり江沢民とさほど変わらない強権的な体質だといえる。
江沢民との違いは、北京オリンピック後の中国の経済発展について日本との協力・互恵関係が欠かせないと判断していることであろう。中国国家元首として10年ぶりに日本を公式訪問する胡錦濤は訪日を「暖かい春の旅」と名付け、日中間の「『戦略的互恵関係』を全面的に推進したい」と語った。
中国は三年後には日本を抜いて世界第二の経済大国になるといわれている。追い抜かれても別に騒ぐことではない。中国が真の意味で改革・開放路線を定着させ、西側との価値観を共有するのなら歓迎すべきであろう。
しかし世界第二、第三の経済大国がアジアに出現することは、様々なリアクションを呼ぶことになるだろう。天安門事件やチベット問題で欧米諸国とは違う態度で逃げてきた日本が、厳しい眼でみられるのは、これからのことである。中国だけに傾斜するのではなくて、西欧諸国との関係を深めていくことが日本にとって必要になる。
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