1826 日中友好の再考を 渡部亮次郎

私は心ならずも記者として日中国交再開を目撃し、日中平和友好条約の締結に携わった。国交回復は22年ぶり、平和友好条約は日本からの資金、技術援助を中国に約束したものだった。
国交回復を決断した時、田中角栄首相は日中戦争の賠償金として「まぁ3億円ぐらい吹っかけて来るかな」と言っていたが、事前に竹入義勝公明党委員長を通しての周恩来首相の回答は違った。
「賠償は要求しません」。これで日本中が「中国ブーム」になり、自民党内ですら中国批判は禁句となった。田中訪中の結果、周恩来のいい出した「日中友好」は両国の合言葉みたいになった。パンダが贈られたのもこの時である。
このとき周恩来首相は北京から上海まで田中首相に同じ飛行機で同行し、田中首相の帰国を上海空港で見送った。これに従うまでも無く胡錦濤主席をホテルであろうがどこであろうが、両陛下がお見送りに出向かれるのは国家日本の元首たる天皇の賓客(国賓)を寓されるについては当然の行為である。このとき周恩来は「天皇によろしく」と伝言を託した。
それをずるい連中に悪どく利用されたとしても、当方としては礼を尽くしただけの事。非難さるべきは礼を尽くした当方ではなく、悪どく利用した連中の方である。
国賓の接遇には歓迎と歓送の行事はセットになっており、歓迎だけして歓送は都合により省略となっては、世界の笑いものになるだけ。
誰かが国賓待遇を閣議決定しても、「歓送」は入っていなかったと訳のわからぬことを言っていたが、笑止千万である。
歓送風景を中国のマスコミ(官営)は「日本国民の前にさえ滅多に姿を見せない両陛下がわざわざ見送りに来たのは胡錦濤を通じて中国に特別な敬意を表した」と報道したため、見送りはするべきじゃなかった。させた外務省、宮内庁が悪い、となった。
国賓=歓迎行事=お見送りは天皇の接遇慣例上、セットになっているものであり、時あたかも胡錦濤氏に対する日本の世論が反対ムード高揚と言っても、お見送りだけをやめたら天皇は面子を失っただろう。
私は田中首相同行記者(NHK)だったから上海へも同行したが、到着後、市内に散歩に出た途端、初めて中国国民の厳しい視線にさらされ、恐ろしくなってホテルに逃げ帰った事を思い出す。
考えてみれば彼らが日本人を見るのは27年ぶり。中国をして塗炭の苦しみを与えた「犯人」が日本人なのである。この男も日本政府の代表者の一人、憎いなぁ、とその目は恨んでいた。
しかし「日中友好」は全中国人の思っていることでは無い。中国共産党が自らの都合に合わせて持ち出すものに過ぎない。それが証拠に江沢民主席在任中は反日教育を徹底し、日中関係悪化の原因を作ったではないか。胡錦濤がやらぬ保証はない。
江沢民のあれは演技でもポーズでもなかった。日本という外敵を作らねば国家統治が難しい事態に差し掛かっていたからである。日本が戦ったのは中国共産党ではなく蒋介石だったことを人民が思い出しかけたからである。。
日本に勝利したのは蒋介石であり、中国共産党ではない。蒋介石はその後、共産党との内戦に敗れ台湾に逃れた。それで中華人民共和国の建国を1949(昭和24)年10月1日まで遅れたのはそのためである。
しかし江沢民は実父が占領日本軍への協力者だった事実を隠蔽する一方で、日本との闘いに勝利したのは共産党であるという「嘘」の歴史を全人民に浸透させる目的で「反日教育」を徹底させたのである。
日本に対しては歴史認識で執拗に批判したのに、ベトナムからの中越戦争の謝罪要求については「ベトナムのカンボジア侵略によるものだ」として、謝罪はしていない。
ここで言う中越戦争とは、中国とベトナムの間で1979年に行われた戦争。中国が支援していたポル・ポトのクメール・ルージュ政権は、カンボジアで大量虐殺を行っていたが、ベトナムによるカンボジアへの大規模な侵入と占領 はこれを終わらせた。
この占領に対抗し、中国はベトナムへの侵攻を開始した。しかし中国軍は敗色濃くなり1月ほどの侵攻の後、撤退という変な終わり方をした戦争。
欧米では中国の経済発展や外交の改善に貢献したとして好評を受けており、「中国を変えた男」として肯定的に評価されている。
しかし日本に対しては一貫して反日・強硬姿勢を貫いた。来日は1998年11月におこなわれているが、この際にも今上天皇と当時の小渕恵三首相に過去の歴史に基づいた謝罪要求をし、その執拗さに保守派のみならず親中派の反発まで買うことになった。
またこの際の11月26日に行われた天皇皇宮主催の豊明殿での宮中晩餐会の席上、江沢民は中国共産党の礼服である中山服(人民服)で出席。これが非礼ではないかと問題視された。
これに対して中国政府側は「式服か民族服を着用するように日本外務省から要望があったために、中山服を民族服として選んだ」としている。
講演をおこなった早稲田大学からの名誉博士号の授与を固辞している。これは、同大創立者・大隈重信が首相時代に対華21か条要求を出した為である。
またこれに先立つ1997年10月の訪米時、ハワイ真珠湾へ立ち寄って戦艦アリゾナ記念館に献花をおこない、ここで日本の中国「侵略」と真珠湾攻撃を批判。歴史問題を通じての米国への接近、ひいては日米離間を狙った演説だったとされている。
こうして見てくると同じく靖国参拝反対で明らかなように中国は国家主席が交替しようとすまいと、国家体制維持の必要から常に「反日」なのであって「友好」は己の都合の良い時だけである。
たまたま今回は8月の初のオリンピックを前にチベット問題が発生し、世界各国から厳しい非難を浴びている時期だけに、日本から要請された国賓としての訪日を最大限に利用し「平和中国」をアピールしようとしただけである。
中国共産党は中国とその周辺を簒奪したのであって、その建国には法的な正当性はない。それを隠蔽するために時至らばすかさず「反日」を隠さない連中である。
天皇のお見送りが間違っていたなどという事を言い出す前に、中国との付き合いの真実を論ずるべきではないか。「日中友好」に騙されて中国に進出した工場の没収の危険を深刻に考えるべきだ。
さらに将来、属国にされる危険を考え、このまま福田媚中内閣を支持するか。それによって政党や宗教団体を峻別する方が先であるといいたい。日中国交正常化に立会い、日中平和友好条約締結に携わった当事者故の叫びである。参考:「ウィキペディア」
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