GHQ時代に白洲次郎氏という日本男児がいたことを知ったのは、占領政治が終わってからしばらく後のことである。私が宮城県の県政記者クラブにいた頃、東北電力の会長に白洲氏がなっていたが「白洲なんて珍しい名前」といった程度の印象しかない。
東京の政治部にきてから仙台にいたことがあると言うと「白洲さんに会いましたか」とよく聞かれた。政治家でない実業界の人物なのに政界では有名人だった。もっとも世間は私と同じで白洲次郎よりも夫人の白洲正子さん(作家・随筆家)の方が知られていた。
白洲姓は珍しい。姓氏家系大辞典では「白洲 シラス 次条氏(白須)に同じきか。摂津三田九鬼藩士に白洲退蔵(文五郎の子)あり。学名高し。且つ藩政を委ねられる」と僅か三行。白須姓は清和源氏武田氏族なので、結構、詳しく載っている。
だが次郎氏は、この珍しい家系の出自であった。摂津国三田藩(現、兵庫県三田市を中心とした地域)の儒学者の家柄で、祖父が白洲退蔵氏。
曽祖父は白洲文五郎氏、文五郎氏の妻つまりは次郎氏の曽祖母は播磨国小野藩(現・兵庫県小野市)一柳家の家老黒石氏の娘というから幕末の動乱期を経験した上級士族だったことがわかる。
退蔵氏は明治維新後は鉄道敷設などの事業を興している。一時は横浜正金銀行の頭取も務めた。士族の商法が成功した一族で次郎氏の父・白洲文平氏は、ハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績(カネボウ、現クラシエ)を経て綿貿易で巨万の富を築いた。
次郎氏も旧制第一神戸中学(現、兵庫県立神戸高校)を卒業して、英国に留学、ケンブリッジ大学クレア・カレッジで西洋中世史、人類学などを学んでいる。もっとも神戸一中時代からバンカラの手のつけられない乱暴者だったという。
「育ちのいい生粋の野蛮人」というあだ名(作家今日出海の命名)を持っている。この乱暴者が伯爵樺山愛輔の娘・正子さんと知り合い結婚、その縁で駐英大使だった吉田茂氏の知己を得た。敗戦後、サンフランシスコ講和会議に出席した吉田首相の演説原稿(日本文)は二日前までは英文だったという。
GHQと外務省が用意した英文原稿をみた次郎氏は、「講和会議というものは戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談した上に相手方の言葉で書くバカがどこにいるか。」と吉田に諫言した。
それ以来、白洲次郎氏はワンマン吉田に直言できる唯一の側近になった。GHQにもズバズバものを言う次郎氏だったが、ワンマンも一目置く存在でもあった。「日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」という言葉を好んで使っている。
田中角栄氏とのエピソードも面白い。次郎氏が理事をしていたゴルフクラブに田中事務所から「これから田中がプレイしますのでよろしく」 と挨拶があった。応対した次郎氏は「田中という名前は犬の糞ほどたくさんあるが、どこの田中だ」・・・。
「総理の田中です」と返答があった。「それは、(ゴルフクラブの)会員なのか?」と彼が尋ねると相手からは「会員ではありませんが、総理です」と返答があった。「ここはね、会員のためのゴルフ場だ。そうでないなら帰りなさい」そう言い、そっぽを向いた。
ウイキペデイアは白洲次郎の名言集を組んでいる。胸のすくような啖呵ばかりである。八十歳まで愛車ポルシェを乗り回し。八十六歳で卒然とこの世を去っている。
「われわれは戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」
「Masa: You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideals. Jon」交際中に正子に送ったポートレートに添えられた言葉。※Jonは次郎のことである。
「お嬢さんを頂きます。」(正子との結婚を承諾してもらうため、正子の父、伯爵・樺山愛輔に言った台詞。)
「ネクタイもせずに失礼。」(新婚当初、正子との夕食の席で。)
「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」(GHQによる憲法改正案を一週間缶詰になり翻訳作業を終え、鶴川の自宅に帰ったときに河上徹太郎にはき捨てた台詞。)
「僕は手のつけられない不良だったから、島流しにされたんだ」(ケンブリッジ大学に留学した理由を問われて。)
「我々の時代に、戦争をして元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。日本の経済は根本的な立て直しを要求しているのだと思う」(『頬冠をやめろ-占領ボケから立直れ』白洲次郎 より引用)
「私は、<戦後>というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて<戦後>は終わったと自己満足してもよかろう」(『プリンシプルのない日本』白洲次郎 より引用)
「プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。…西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい」(『諸君』9月号1969(昭和44)年)
「”No Substitute”(かけがえのない)車を目指せ。」(2代目トヨタ・ソアラ開発に際して開発責任者の岡田稔弘に。)
「ツイードなんて、買って直ぐ着るものじゃないよ。3年くらい軒下に干したり雨ざらしにして、くたびれた頃着るんだよ。」三宅一生にアドバイスとして。
「わからん!」(白洲正子の『西行』を読んで。)
「一緒にいないことだよ」(晩年、夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられて。)
「Hope She will be MORE TIDY! 1979」 (武相荘にあるブラシ入れの底裏のメッセージ。おそらく正子へのうっぷん。)
「相撲も千秋楽、パパも千秋楽。」(晩年、東京赤坂・前田医科病院に入院する前にテレビで相撲を見ていながら、長女((第三子))の((現姓・牧山))桂子さんに向かって。)
「右利きです。でも夜は左。」(入院した病院で看護師さんに「右利きですか?左利きですか?」と尋ねられて。※ちなみに”左利き”とは”酒飲み”という意味を持つ。)
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