1841 わが家の災害大作戦? 古沢襄

用心深いといえば聞こえがいいが、根が臆病なのかもしれない。昭和ヒトケタ、とくに東京でB29や艦載機グラマンの空襲で逃げまどった私たちの世代は、用心深い共通性がある。災害に対して極めて敏感である。
したがって四川大地震は人ごとではない。日本だって、いつ東京直下型や関東大地震がきても不思議ではない。その備えはしてきたつもりだが、あらためて点検してみると隙だらけ。
以前は八畳間で寝ていた。大きい洋服タンス、大型テレビ、茶箪笥などに囲まれていたから、地震で洋服タンスが倒れてきて圧死する危険性があるといわれた。それから七畳間の洋間にベッドを持ち込んで、家具は一切置かない寝室にした。寝室は二階にあるので、窓から出れる様に縄ハシゴまで用意してある。
しかし二年も三年もたつと肝心の縄ハシゴは庭の物置行き。家具は置かないつもりだったが、窓際にテレビが鎮座している。頭の上には電気スタンド。それに壁には大きな額縁の絵が飾ってある。災害は忘れた頃に来るのに・・・。
衣食住というが、災害に遭って、まず必要なのは水と食糧であろう。大型のペットボトルの水を五本も備えたが、一年も放っておいたから植木の差し水に化けた。水は雨水を煮沸して使うしかない。
食糧は乾パンが一時売れ筋だったが、わが家は「ソフト食パン ミックス」を三〇個、常時備えている。一個が一斤、夫婦だけだと一斤で二回は持つ。電気製パン器に水とイースト菌を一緒に放り込んで置けば四時間もすればフカフカの食パンが焼き上がる。
昭和ヒトケタは三食をパンというのは抵抗がある。やはり乾麺ウドン。メリケン粉をこねた”すいとん”は戦時中によく食べた。乾麺ソバも必要である。乾麺系は乾燥されているといっても、長期間の保存は味が落ちる。一年保存しておいたら、黴が生えたものもあった。これは、こまめに買い継ぎをして保存する様にしている。
やはり頼りは”お米”。幸いなことに近所の徳さんと仲良くなった。徳さんは脱サラの農家、勉強家で物識りなので意気投合。使っていたノートPCを差し上げたら、それ以来、お米の代金を受け取らなくなった。そろそろ米櫃が寂しくなったな、と思う頃に10キロのお米を二袋持ってきて、黙って置いていく。
もうとっくにノートPC代を上回っているので、お米の代わりにワインや中国茶などを持っていって物々交換をしながら交友が続いている。都心に住んでいたら、こういう農家との付き合いがない。それだけで利根川を越えて、この地に住んだ甲斐がある。
意外と役に立つのは建築用のビニール・シート。屋根が崩れて雨漏りになりそうなら、ビニール・シートを二枚重ねて置けばよい。わが家では七〇坪の敷地に所狭しと植木が茂っているが、水洗トイレが使えないとなれば、庭に穴を掘って用を足すしかない。臨時トイレ用の杭が四本、その回りをビニール・シートで囲む用意はしてある。
もっとも夫婦二人なら、これで一ヶ月や二ヶ月の籠城は頑張れる。東京と横浜にいる娘夫婦の家族が疎開でもしてきたら、どうなることか。一時は井戸を掘ったり、太陽光発電のパネルを屋根につけることも考えた。
「いい加減になさい!頭が禿げますよ」と女房から一喝されて、この災害大作戦はオジャンとなったのだが・・・。
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