1846 「従軍記者」事始(2) 平井修一

日清戦争の当初は、記者の従軍についての規律・規則も「何分にも初めてのこと」(岡本綺堂)でほとんどないに等しかった。記者のいでたちも様々で、白木綿の帯を締めて日本刀をぶち込んでいる者、槍や仕込み杖を持っている者もいる。
軍隊がどこまで保護してくれるか分からないし、非戦闘員とはいえ自衛のために支那兵と戦うことも覚悟しなければならないため、厳重に武装していた。
規律・規則が不明確なので、配属部隊も記者も戸惑うことが多かったようだ。
「部隊の待遇がまちまちで、非常に優遇するのもあれば、邪魔者扱いにするのもある。記者の方にも、おれは軍人でないから軍隊の拘束を受けない、といったような心持もあって、めいめいが自由行動をとるという風がある。軍隊の方でも余りやかましく云うわけにもいかない」
明治37(1904)年、38年の日露戦争になってようやく従軍記者規則ができた。
・従軍記者は大尉相当の待遇を受ける。
・軍隊の規律に一切服従する。
・携行武器はピストルのみ。
・社名を記した腕章をつける。
・1社につき1人のみ。
などと決まった。
「1社につき1人のみ」とはずいぶんと厳しいが、イチローやゴジラ松井の取材みたいに大報道陣が部隊にぞろぞろついてきたら足手まといになることこの上ないので、制限せざるを得なかったのだろう。それにしてもこれはかなりのハードルだ。
「こうなると画家も写真班も同行することを許されないわけです。これには新聞社も困りました。画家や写真班はともあれ、記者一人ではどうにもなりません。(部隊が)別々の方面へ向かって出動するのに、一人の記者が掛け持ちをすることはできません」
上に政策あれば下に対策ありで、新聞社はこの難問をコロンブスの玉子で乗り越える。「羽織ゴロ」と言われるくらいの海千山千ぞろいだから、やがて抜け道を探し当てた。
自社から一人の従軍願いを出し、従軍しない小さな地方新聞社の名義を借りてさらに何人かの許可を得るという方策だ。岡本綺堂の「東京日日新聞」(現・毎日新聞)ではすでに一人は決まっていたので、彼は「東京通信社」の名義で許可を得た。
「陸軍側でもその魂胆を承知していたのでしょうが、一社一人の規定に触れない限りは、いずれも許可してくれました。それで東京の各新聞社も少なきは二、三人、多きは五、六人の従軍記者を送り出すことができたのでした」
日本陸軍には外国人記者も従軍した。その最初が英国人写真家、ハーバート・ジョージ・ポンティングだった。ポンティングは米国の雑誌の特派員という名目で第一師団に従軍した。
彼は「この世の楽園・日本」と題する、こちらが恥かしくなるほどの“日本最高、クールジャパン大好き!”という著書を残しており、その中で重要な取材をしている。(つづく)
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