1860 「従軍記者」事始(7) 平井修一

従軍記者は三度の食事をどうしたのか。戦争中でも腹は減る。
配属された部隊の監理部から一人につき1日6合の米のほかに缶詰などのおかずが支給された。時には生きた鶏や生の野菜をもらうこともあったが、米は炊かなければならないし、鶏や野菜は調理しなければならない。ガス、水道があるわけではないのだ。三度の食事の用意はなかなか面倒である。
岡本綺堂ら部隊配属の記者7人。呉越同舟ではあるが一組になって行動していた。今で言えば「共同」「時事」「朝日」「毎日」「読売」「産経」「日経」の記者が「従軍記者クラブ」として動いているようなものである。
話は一気に飛ぶが、新聞・マスコミにはそれぞれ主張はあっても、現場はすこぶる助け合う。なぜならプロ野球と同じく、皆が業界内を動き回るのである。昨日までの毎日新聞の記者が今日からは産経新聞の記者になるなんて普通であり、記者連中はそれを「国替え」と言っていた。皆、基本的に仲がよい。NHKの放送記者も、有能な者は他局やら新聞社から引っ張られる。ま、キャリアアップなのだ。
政治家から引っ張られる記者も実に多く、緒方竹虎、河野一郎、安倍晋太郎などもその部類だそうで、記者出身で議員、大臣、大臣秘書官やら官邸に務めた人は実に多いだろう。
閑話休題。
岡本綺堂ら戦地の記者クラブは支那人の苦力(クーリー)を二人雇った。下働き、雑役夫、下男、男衆(おとこし)と言うのだろうが、要するに洗濯から掃除、炊事までの何でも屋である。
1日50銭、二人で1円。当時はザル蕎麦が2銭(今の400円)のようだから50銭は今の1万円ほどか。現金収入の機会の少ない時代だから苦力の二人は喜んで忠実に働いてくれたという。もっとも苦力は日本の調理法を知らないので、7人の中から1人が炊事当番として毎日交代で食事の監督をした。
しかし、ここは戦場だ。戦闘が始まれば飲まず食わずである。
<「なにか旨い物が食いたいなあ」、そんな贅沢を言っているのは駐屯無事のときで、ひとたび戦闘が開始すると、飯どころの騒ぎでなく、時にはトウモロコシを焼いて食ったり、時には生玉子二個で一日の命を繋いだこともありました。沙河会戦中には、農家へ入ってひと椀の水をもらったきりで、朝から晩まで飲まず食わずの日もありました。
不眠不休の上に飲まず食わずで、よくも達者に駈け回られたものだと思いますが、非常の場合にはおのずから非常の勇気が出るものです>
戦場は過酷で不便この上ない。灯火は蝋燭と火縄のみ。この火縄が懐中電灯代わりで暗夜の外出に使う。提灯を使わずになぜ火縄か。火縄は竹・檜皮の繊維や木綿糸をよったもので、硝石を混ぜてあるから火力はあった。これを振りながら歩くのだが、野犬を防ぐためだという。
<満州の野原には獰猛な野犬の群が出没するので困りました。殊にその野犬は戦場の血を嘗めているのでますます獰猛、ほとんど狼に等しいので、我々を恐れさせました>
他にもサソリ、南京虫、シラミ、ノミ、蝿、蚊などが記者たちを悩ませたろう。しかし、一番恐ろしいのは砲弾、銃弾だ。
<安全な場所にばかり引き籠っていては新しい報告も得られず、生きた材料も得られませんから、危険を冒して奔走しなければなりません。文字通りに砲煙弾雨の中をくぐることもしばしばあります。日清戦争には「二六新報」の遠藤君が威海衛で戦死しました。日露戦争には「松本日報」の川島君が沙河で戦死しました。川島君は砲弾の破片に撃たれたのです。
私もそのとき小銃弾に帽子を撃ち落されましたが幸い無事でした。その弾丸がもうちょっと下がっていたら只今こんなお話をしてはいられますまい。私のほかにもこういう危険に遭遇して、危うく免れた人々はいくらもあります>(つづく)
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