さて、従軍記者の報道の範囲、すなわち「取材行動と発表」は当然束縛される。戦争は生きるか死ぬかの修羅場であり、作戦はとことん秘密なのだ。取材・報道は政府と新聞社との間で合意した規則やら通達、法令、合意に従うことになる。それは当然で、国も新聞社・記者も「日本が勝つ」ために戦っているのである。
明治37(1904)年2月10日、我が国がロシアに対し「宣戦布告」すると同日、陸軍省は「陸軍従軍記者心得」を、その2日後の12日には海軍省も「海軍従軍記者心得」を定める。
この「従軍記者心得」はどういうものか小生には分からない。しかし、その5日後の2月17日に発表された大本営陸軍参謀部の「新聞記者告示の件」は「アジア歴史センター」のアーカイブにあった。原文は筆書きの漢字・カナ遣いだが平仮名にして以下紹介する。
<従軍新聞記者諸君に告ぐ。
諸君は社会の耳目たる責任を以って今般、我が出征軍に随従し遠く海外に航し、硝煙弾雨の間に奔走し、戦況を詳報して、内地同胞の念慮を慰藉せんとす。その志、偉なりと言うべし。
それ満・韓の地は道路険悪、物資欠少にして、宿舎、糧食など到底我が思望を満たすあたわざるは諸君のつとに熟知せらるるところなり。
ゆえに諸君はまずこの艱苦、欠乏に耐ゆること兵士と同一なるを期(予想)せざるべからず。しかもその風姿、品行などは操觚者(そうこしゃ=文筆に携わるもの。小生57歳にして知った)たるの体面を辱めず、慎みてこれを保ち、常に陸軍省告示第三号の主旨を服膺(ふくよう、従う)し、その進止(行動)は豪(少しも)も軍隊の動作を妨害せず、報告は厳に軍事の機密を守り、敢えて片言隻辞をもいやしくもせず、努めて内地の士気、民心を興奮せしめんことを図るべし。
これらの事項、もとより諸君の予期するところなるべしと言えども、ひと言して注意を求む奉に、これを諒とせられよ>
とにかく明治政府は、国際社会で立派に「優等生でやろう」と思っており、国内の新聞社はてなづけてすべて検閲を条件に従軍取材を基本的に許した。
それに対して外国の政府・新聞社は「従軍取材を許可された」ものの「戦争機密」を盾に「現地取材」を拒否されたものだからから怒り心頭だ。ぎゃんぎゃん「報道規制緩和」を申し立てる。特に世界的な通信社が強硬に「報道の自由」を主張する。日本政府の苦衷は高まるばかりだ。(つづく)
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