私の生まれた2年後の第1次近衛文麿内閣時代、当時の企画院を中心とした革新官僚と呼ばれたグループによって策定された。大財閥を中心とした経済界はこの法案に対して、法律に拠らない私権の制限であり社会主義的であるとの批判を持っていた。
ところが戦後、日本社会党となる社会大衆党は同法に賛成の立場であり、軍部・革新官僚・近衛の少数与党として立ち働いて飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
私の高校、大学時代は昭和史はまだ歴史として定着していないという理由で教育されなかった。だから昭和生まれと言っても敗戦前のことは自分で勉強するしかない。いずれ国家総動員法の恐怖を知る者と知らない団塊の世代とでは決定的に違う。
団塊の世代とやらは、民主主義を当然として成長したが、70代の我々はそれを信じられない。それで学生運動に挫折したが、団塊の世代は改革を信じて挫折した。北朝鮮にあこがれた馬鹿もいた。
1938年(昭和13年)4月1日公布,5月5日施行された。シナ事変を戦いながら総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定した。この時点ではまだ対米戦を想定はしていないが、何か大戦を意識はしている。
1945年の敗戦によって名目を失い、同年12月20日に廃止された。
同法によって国家統制の対象とされたものは、以下の6点に大別できる。
労働問題一般=国民の産業への徴用、総動員業務への服務協力、雇用・解雇・賃金等の労働条件、労働争議の予防あるいは解消
物資統制=物資の生産、配給、使用、消費、所持、移動
金融・資本統制=会社の合併・分割、資本政策一般(増減資・配当)、社債募集、企業経理、金融機関の余資運用
カルテル=協定の締結、産業団体・同業組合の結成、組合への強制加入
価格一般=商品価格、運賃、賃貸料、保険料率
言論出版=新聞・出版物の掲載制限
しかも法律上にはこれら統制の具体的内容は明示されず、すべては国民徴用令をはじめとする勅令に委ねられていた。このことから、同法をナチス・ドイツによる授権法(1933年)の日本版になぞらえる説もある。
この結果、日本中すべて「統制」され、すべてに「自由」と「勝手」が無くなり「逼塞感」が充満。結局は対米戦争に突っ込んで行くことになった。
秋田の農家だった私の生家の作業場にはなぜか謄写版があった。コピー機である。だが間もなくインクが買えなくなり無用の長物となった。やがて学校では習字の用紙が無くなり、墨で塗りつぶした新聞紙に水で書いて練習した。洋服もゴム長も「配給」になった。
もともと第1次世界大戦(1914年7月ー18年11月)の教訓により、戦争における勝利は国力の全てを軍需へ注ぎ込み、国家が総力戦体制をとることが必須であるという認識が広まっていた。
折からシナ事変(1937年―)の激化に伴い、当時の日本経済でシナで活動する大軍の需要を平時の経済状態のままで満たすことが出来なくなっていたため、経済の戦時体制化が急務であった。
この法案は当時企画院を中心とした革新官僚と呼ばれたグループによって策定された。
概要は、企業に対し、国家が需要を提供し生産に集中させ、それを法律によって強制する事で、生産効率を上昇させ、軍需物資の増産を達成し、又、国家が生産の円滑化に責任を持つ事で企業の倒産を防ぐ事を目的とした。
しかし、この法案は総動員体制の樹立を助けた一方で、社会主義的であり、共産主義の計画経済の影響を受けていた。
後に、この法案を成立させた第1次近衛内閣の後に首相となった平沼騏一郎を中心とした右翼・反共主義者の重鎮により、企画院において秘密裡にマルクス主義の研究がなされていたとして、企画院事件が引き起こされた。
経済界に近い立場の民政党・政友会など既成政党も、政府に対する広範な授権は大日本帝国憲法において帝国議会に保障された立法協賛権の剥奪につながる恐れがあり憲法違反であるとして反対の空気が強かったが、議会審議では政府や陸軍に押し切られる形で可決成立をみた。
これについて、通説では陸軍の圧力によるところが大きいとされているが、近年ではこの時期の陸軍は「事変」中における議会との全面対決には消極的であった。
むしろ有馬頼寧ら近衛文麿首相側近の間で、国民の支持が高い近衛の下に革新派を結集させて「近衛新党」を旗揚げして、解散総選挙に打って出る動きがあったために、既成政党側がこれを恐れて妥協に転じたとする説もある。
なおこの審議中には、既成政党の無力ぶりを示す以下2つのエピソードがあった。
「黙れ」事件
1938年3月3日、陸軍省軍務課新聞班長佐藤賢了中佐が委員会審議中、政府側説明員として長時間にわたり法案の趣旨説明を行った。
そのあまりの長広舌に対して議員より「いつまでやるつもりだ」という趣旨の野次が飛んだ際、佐藤は「黙れ!」と恫喝、議場は騒然となった。
事態収拾のため杉山元陸軍大臣が陳謝したものの佐藤本人に懲罰はなかった。当時陸軍大臣が直ちに謝罪する例は珍しく、法案審議に際しての「軍部の低姿勢」ぶりが際立っているとする見方もある。
西尾除名事件
社会大衆党は同法に賛成の立場であり、軍部・革新官僚・近衛の少数与党として立ち働いて飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
3月16日、同党議員の西尾末広は法案賛成の演説を本会議で行ったが、近衛首相を激励する一節「ヒットラーの如く、ムッソリーニの如く、あるいはスターリンの如く大胆に進むべき」の「スターリン」の部分が民政・政友両党により問題化。
西尾は発言を取り消したものの懲罰委員会に付せられ、結局議員除名となった。日独伊三国同盟(1940年9月)に繋がって行く情勢を反映した出来事だった。
既成政党勢力にとっては、政府・陸軍に押し切られる一方の議院運営の鬱憤を少数与党ぶりの社会大衆党に対して晴らす格好になった。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』及び世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス
杜父魚ブログの全記事・索引リスト(5月20日現在1870本)
1867 国家総動員法の恐怖 渡部亮次郎

コメント