それは反面教師のような両親がいたからである。秋田県中央の日本海につながっていた八郎潟東部沿岸に展開する水田ばかりの農村。八郎潟の魚と大豆を唯一の蛋白源として育った。
貧しいが故に父親は若い頃から農民運動に奔走。母もそれに同調していたらしい。並行して父は農用地拡大を狙いとして戦前から八郎潟干拓を主張。戦後は県庁に日参していた。
当然、支持政党は戦後は日本社会党。支部の役員を務めた時期もあった。干拓で得た水田は父の死後、女婿がすべて借金のカタに農協に取られて止むを得ず、農家で無くなった。
私の単純な疑問は、日本社会党が米作農民の政党というなら、同じ農家の隣近所はどうして社会党支持じゃないのか、だった。保守政党にも農民支援策があるのでは無いか。
そんな事よりも戦後何年経っても正月を旧暦でやる風習を何とかしてもらいたいと、村中を新聞メガホンで叫んで廻った。そのせいではなかったろうが、間もなく冬休みと正月が重なるようになった。
大学では総長が新聞は朝日、雑誌は『世界』を読め、と入学式で訓辞したので絶対『世界』は読まなかった。生来、けしかけられると反発する性格が幸いして、全学連の連中のアジ演説には近付かなかった。
大学の新聞部は殆ど代々木(日本共産党)の支部みたいだったから敢えて除名されて助かった。授業はすべてマルクスに繋がっていたから理論は理解したが、染まらずに済んだ。
マルクスに繋がらない授業はベトナム帰りの秋田県人。私の鼻濁音を褒めてくれたので、フランス語に夢中になった。就職試験もフランス語で合格したと言うと、現在となっては信じられないと友人はいう。
社会人になってからは会社の労働組合役員にさせられたことがあったが、彼らの訴えることとやっている事が矛盾してとすぐ分かってやめた。
政治記者としては社会党も共産党も担当したが、マルクスの言った事は理想論。永久に現実のものとならない論、いうなれば念仏みたいなものと理解していたので、1年でクビ。
いわゆる安保騒動の時は仙台にいた。仮に学生だったとしても参加するはずも無い。アジ演説は聞き流してしまう、つむじ曲がりの性格だから、仲間に引っ張られれば引っ張られるほど反発して敵に回ったろう。
こんな性格は誰から伝わったDNAだろうと考えて不思議な気持になる。両親は何に反発して社会主義者になったのか。貧困への反発であろう。私を育て上げるためのマルクス信者だったのではないか。
それなのに、こんな文章を書いては申し訳ないようなものだ。父は80にして老衰死、母やその後も20年近く生きて、98でポックリ死した。これだけは遺伝していて欲しい。
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