1888 駅弁大学の日 渡部亮次郎

秋田県に大学は無かったが、占領軍によって各県に1つは国立大学を置くべきだとの考えから秋田師範学校と秋田鉱山専門学校が合併する形で秋田大学が出来た。昭和24年5月31日である。
新制国立大学設置法がこの日、公布されたことに伴うもので、この日、全国で68もの国立新制大学が発足。旧制山形高等学校は格下の山形師範学校と一緒にされて山形大学となった。
北隣の青森県・師範学校と旧制弘前高校を一緒にして青森ではなく弘前大学とした。青森大学はその後出来た私立大学である。
同時に東京では東京商科大学は一ツ橋大学、東京女子高等師範学校がお茶の水大学と改称された。
占領米軍は対米戦にいたる軍部の独走を阻止できなかった原因のひとつとして健全な知識階級の絶対数の不足を指摘し、再び高等教育機関の大拡充が行なわれることになったわけだ。
しかし、それは敗戦直後のハイパーインフレ下という最悪の環境下で行われたため、大学新設は質的向上をもたらさず、結局全国の専門学校が一斉に看板を新制大学に架け替えるという「移行」にとどまった。
とくに、教員養成課程は戦前は中等学校レベルである師範学校が母体となったため「2階級特進」などと揶揄された。
その結果、「国鉄の急行停車駅ごとに大学がある」と評されるほどに、全国各地で新制大学が急増した。
そこで辛口論評を得意としていた評論家の大宅壮一がこれを諷して「急行の停まる駅に駅弁有り、駅弁あるところに新制大学あり」と発言した。
戦前のいわゆる旧制大学は、1877年にお雇い外国人により国際的学問水準を確保した旧制東京大学が東京に設立され、1886年の帝国大学令によって、旧制東京大学は唯一の総合大学である帝国大学となった。
この帝国大学令が根拠となって複数の学部(分科大学)を有する帝国大学だけが官立の大学として設置を許されることになった。
その後、東京の組織を手本に京都帝国大学(1897年)、東北帝国大学(1907年)、九州帝国大学(1911年)、北海道帝国大学(1918年)、大阪帝国大学(1931年)、名古屋帝国大学(1939年)が各地に誕生した。
なお、京都帝国大学の設立時に、東京の帝国大学は「東京帝国大学」と改称された。
一方、その頃すでに1903年にはいくつかの一定水準に達した専門学校が専門学校令による「私立大学」として高等教育にあたっていたが、学位の授与はなく、実業家などの子息がその財力を頼みに進学する先であり、水準は必ずしも高くなかったとされる。
その後第一次世界大戦の好景気を背景に高等教育機関の拡充が叫ばれ、その結果1918年に公布された大学令によって官立、公立の単科大学と私立大学の設置が正式に認められた。
これにより、有力な官公立の専門学校と十分な基本財産を持つ私立専門学校が旧制大学として順次昇格していった。しかし、双方をあわせてもその進学率は同世代の男子の数%に過ぎなかった。
大宅は特定の大学を指して「駅弁大学」と揶揄したことはなく、その定義は明確ではない。
「東京都以外に所在し」かつ「法学部・医学部がなく」(ただし、近年医学単科大学と合併したところを除く)かつ「教育学部、経済系学部や工学部が中心」の国立大学を指すと考えるのが妥当ではないか。
主に、「旧制師範学校」や「旧制高等学校」が母体となった新制大学を指し、「旧制高等師範学校」、「旧制女子高等師範学校」、「旧三商大」(小樽、東京、神戸)などが母体となっている場合は駅弁には含まれないと考えられる。
1947年(昭和22年)に帝国大学令が国立綜合大学令と名称変更され、それに伴い各地の帝国大学は改称し、学制は保持しつつも帝国大学の名は消えた。
その後、1949年(昭和24年)に新制大学に包括され(学制改革)、1962年(昭和37年)に各旧制大学は廃止された。これにより、学制上の帝国大学もなくなった。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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