1898 不忘六四天安門虐殺 渡部亮次郎

今から19年前、1989年の6月4日、北京の中心地天安門広場で共産党の命令を受けた人民解放軍が、自由を求める群集に無差別発砲した事件があった。
事件による死者は、中国共産党政府の発表では319人となっているが、数百人から数万人の間で複数の説がある。しかも広場から完全にデモ隊が放逐された後に、人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却されたという情報があるし、共産党政府によって多くの死体が隠匿されたという報道もある。
共産化された中国は革命家毛沢東存命中は貧しかった。その死後、権力を握ったトウ小平が外資導入を伴う経済の開放化路線に踏み切った途端、猛烈な経済成長が始まった。これに並行するように先輩格の共産主義国家ソヴィエトでは政治の開放化が始まっていた。
1985年3月に登場したミハイル・ゴルバチョフ書記長が、共産党による一党独裁政権が続いた中で言論の弾圧や思想、信条の自由が阻害されたことや、官僚による腐敗が徐々に進み硬直化した同国を立て直すために「ペレストロイカ」を表明し同国の民主化を進めていた。
そこで1949年の建国以来長年共産党の一党独裁下にあった中華人民共和国でも、1986年5月に胡耀邦総書記が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進し、国民からは「開明的指導者」として支持を集めた。
しかし胡は1987年1月16日の政治局拡大会議でトウ小平ら党内長老グループや保守派によって事実上失脚させられ、11月には後任に改革派ながら穏健派と目された趙紫陽が総書記に選出された。
失脚後の胡はその後、北京市内の自宅で公安警察の監視のもと外部との交流を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、その後2年も経たない1989年4月15日に心筋梗塞のため死去した。
民主化に積極的であった胡の死去を受けて翌16日には北京の大学生を中心とした民主化推進派の学生たちによる胡の追悼集会が行われた。
これを契機として16日と17日に、同じく民主化推進派の大学生を中心としたグループが北京市内で小規模な集会を行った。当然「仕掛け人」が操っていた。
学生を中心とした民主化を求めるデモは、4月22日には西安や長沙など全土に広がっていった。
これを受け、穏健派の趙紫陽総書記が北朝鮮を公式訪問していた隙の4月24日に、中国共産党政治局がこの活動を「反政府動乱である」と規定し人民日報やテレビなどの国営メディアを使って事態を沈静化するように国民に呼びかけた。
だが活動は逆に拡大をみせ、その後の五四運動の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生、市民ら約10万人が再び民主化を求めるデモと集会を行った。
5月中旬には全土から天安門広場に集まる学生や労働者などのデモ隊の数は50万人近くになり、公安警察による規制は効かなくなり、天安門広場は次第に意見を自由に発表できる場へと変貌していった。
この様な状況下にもかかわらず、5月15日には、「改革派」として世界的に知られていた、ソビエト連邦共産党のミハイル・ゴルバチョフ中央委員会書記長が、冷戦時代の1950年代より続いていた中ソ対立の終結を表明するために、当初の予定どおりに北京を公式訪問した。火に油を注いだ。
その頃、戒厳令の布告を受けて厳しい報道管制が敷かれ、日本や西側諸国のテレビ局による生中継のための回線は中国共産党政府によって次々と遮断されていたものの、アメリカのCNNは依然として生中継を続けていた。
6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、中国共産党首脳部の指示によって、中国人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が天安門広場を中心にした民主化要求をする学生を中心とした民衆に対して投入された。
一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に市街地で争乱を繰り返す民衆に対して無差別に発砲した他、装甲車で市民を轢き殺すなどして多数の民間人を死傷させた。
この様な無差別な武力鎮圧は数時間に亘って行われた。学生運動の主立ったリーダー達は武力突入前後には現場から姿をくらまし、支援者らの手引で海外に亡命した。
天安門虐殺事件。カギはゴルバチョフ、胡耀邦、トウ小平、学生。あれから19年。資本主義化は一段と進んでいるのだから、自由を渇望するマグマは・・・当然であろう。出典「ウィキペディア」
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