1909 朝鮮の海苔養殖 hideおじさん

今では、世界各地で海苔を食べることができるが、元々は東アジアにしかない食文化であったそうである。ーーー例外的にイギリスでも食されていた地方がある。グリーンランドなど北極圏の一部でも食されていたとの記録もある。
日本の場合、8世紀頃(奈良時代)中国から紹介されたとの記録もあるが、それ以前にも食べていたという文献も残っている。ーーー当時は非常な貴重品だったそうで、一部の貴族しかお目にかかることはなかったようだ。
現在のような板海苔は、江戸時代の1680年頃に生まれ、当時有名だった再生紙の「浅草紙」に製法が似ているところから「浅草海苔」と呼ばれるようになったともいわれる。
さてその海苔であるが、中国、朝鮮では、時代とともにだんだんその食文化が廃れてしまった。13世紀後半の朝鮮の書物に「海衣」という文字が残っており、これが海苔のことだといわれているが、どのようなものだったか、詳細は分かっていない。
日本と同じように、貴族や地元漁師以外には口に入らなかったようだ。
朝鮮においてこの海苔文化が復活するのは、日韓併合時まで待たなくてはならなかった。
朝鮮総督府は、朝鮮の産業復興の一環として水産試験場を設立、それまで細々とした沿岸漁業が主だった朝鮮に、近代的な漁法を伝え、また科学的な沿海・海洋調査や漁業資源の調査など膨大なデータは、現在の韓国漁業の基礎を作ったものである。
その中で特筆されるのは、初めて「養殖」という技法を伝えたことである。
「養殖」という観念は、それまで朝鮮には無く、大正時代に総督府が設立したこの水産試験場においての「淡水魚の養殖」がスタートだった。
その中で、「富士川きよし=[サンズイ+摎の右側]」という東京帝国大学出身の水産試験技師が、それまですっかり廃れてしまっていた朝鮮の海苔に目をつけ、その生産を復活させた。
朝鮮独自の技法を参考に改良を加え、海苔の養殖に取り掛かったのだが、これをきっかけに朝鮮海苔の生産が飛躍的に伸びた。
朝鮮の海苔は、需要が多かった日本へ輸出され、高麗米と同様、朝鮮の重要な輸出品目となった。まだ工業製品の発展をみなかった朝鮮において、海苔もまた朝鮮財政の一役を担ったのである。
そして富士川きよしは、1942年、地元住民から感謝され、彼の功績を称える記念碑が建てられるようにまでなった。
彼は、終戦後も朝鮮進駐軍の依頼を受け、新生朝鮮に残り、朝鮮戦争が始まるまで海苔養殖技術を韓国で広めていったのだった。富士川が作った海苔養殖技術は、その後日本に逆輸入という形で有明海苔に生かされることになる。
日本統治時代の海苔増産により、朝鮮においても、それまで一部貴族の滋養食品であった海苔が一般市民の口にも届くようになり、「キムパプ」といわれる海苔巻きは、韓国の庶民の食べ物として現在に至っている。
悲しいかな現代の韓国では、板海苔も海苔巻きも韓国が起源であると強弁しており、富士川らの努力は記念碑の破壊とともに全く韓国の歴史から消されている――――。
たしかに、日本の養殖技術が直ぐに朝鮮の人々を裕福にしたわけではないかもしれない。しかし、近代漁法を朝鮮にもたらしたその功績は、我々日本人だけでも覚えておきたいものである。
ちなみに、総督府が設立した水産試験場は、釜山水産専門学校とともに、戦後「国立水産大学」に改名、そして同じく日本統治時代に設立された工業補修専門学校(戦後、国立工業大学)と合併し「釜慶大学」として、現在でも韓国のトップ10に入る狭き門の有名大学として存在している。
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