1940 アイヌの昨日今日明日(上) 平井修一

イザベラ・バード著「日本奥地紀行」を読んでいる。英国人旅行家で、明治11(1878)年に西洋の女性として初めて東北・北海道を踏査した。行程の多くは快適とは無縁のサバイバルであり、47歳とは思えぬバイタリティとチャレンジ精神には驚く。脊椎の持病を抱えながら、翻訳者曰く「自己の忍耐力の限界を試そうというマゾヒスティックな衝動に駆られた」かのような難行苦行の旅である。
彼女はアイヌについて村に居住しながら細々と観察しており、とても興味深い。当時のアイヌ人はどんな状況だったかを「北海道ウタリ協会」のサイトで調べると――
明治政府は明治2年、開拓使を設置し、蝦夷地を「北海道」と改称した。明治4年、戸籍法公布によりアイヌを平民に編入し、農具などを付与するとともに入墨などのアイヌ伝統の習俗を禁止、日本語の習得を定め、開拓使学校にはアイヌ子弟も入学した。明治9年、アイヌに対する「創氏改名」を布達。翌10年にはアイヌ居住地は官有地に組み入れられ、11年にはアイヌの呼称を「旧土人」に統一(注:土着の人、土地の人の意)。
バード女史が訪ねたときのアイヌはおおよそ以上の状況にあるが、生活振りは「未開人」のままだったようである。小生が全く知らなかったアイヌの人々がそこにいる。
「どの民族よりもエスキモー人のタイプに近いのではないか。・・・その大人(男性)は純粋のアイヌ人ではなかった。私はその顔型といい、表情といい、これほど美しい顔を見たことがないと思う。高貴で悲しげな、うっとりと夢見るような、柔和で知的な顔つきをしている。未開人の顔つきというよりも、むしろサー・ノエル・パトン(英国の歴史画家)の描くキリスト像の顔に似ている。彼の態度は極めて上品で、アイヌ語も日本語も話す」
「四人のアイヌ婦人たちは若くて綺麗であったが、裸足で、しっかりと大股で歩いた。男たちとだいぶ笑い声を立てていたが、やがて七人全部が人力車をひき、きゃあきゃあ笑いながら半マイルほど全速力で走った」
「アイヌ人は邪気のない民族である。進歩の天性はなく、あの多くの被征服民族が消えて行ったと同じ運命の墓場に沈もうとしている」
「私はフォン・シーボルト氏に、これからもてなしを受けるアイヌ人に対して親切に優しくすることがいかに大切かを伊藤に日本語で話してほしい、と頼んだ。伊藤はそれを聞いて、たいそう憤慨して言った。『アイヌ人を丁寧に扱うなんて! 彼らはただの犬です。人間ではありません』」
フォン・シーボルト氏とは、幕末期に日本に西洋医学を移植し、後に「シーボルト事件」で追放されたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男(通称:小シーボルト)。青年期の明治2(1869)年、日本へ渡来、約30年間東京でオーストリア・ハンガリー公使館に通訳官や外交官として勤めながら、父・大シーボルトの未完成の日本研究大集成を完結するよう研究を重ねた。たまたまバード女史と同時期に北海道に滞在していた。
伊藤というのは女史の通訳、18歳。重宝ながら抜け目なく、性格が悪いが、西洋人に対して(表面的には)気後れするどころか日本は同等以上だと気位が高い。その後の消息が気になる怪男児だ。
「平取(ビラトリ)はこの地方のアイヌ部落で最大のものであり、非常に美しい場所にあって、森や山に囲まれている・・・私たちが部落の中を通っていくと黄色い犬は吠え、女たちは恥ずかしそうに微笑した。男たちは上品な挨拶をした・・・彼らが言うには、(留守をしている)酋長のベンリは、私が滞在する間は(酋長の家を)自分の家のように使ってくれと願っており、いろいろと生活習慣が違う点を許してもらいたい、とのことであった。(酋長の甥の)シノンデと他の四人はかなりの日本語を話す」
「伊藤は通訳として立派に活躍してくれた・・・今では彼は、山アイヌ人は思ったより良い人間だ、と言っている。『しかし』と彼は付け加えて言った。『彼らの礼儀正しさも日本人から学んだものなのです!』」
「いちばん若い二人の女はとてもきれいである。私たち西洋人と同じほど色が白い。彼らの美しさは、ばら色の頬をした田舎娘の美しさである。彼女ら二人は、男たちのいるところでは言わなかったが、実は日本語が話せる、ということが分かった。彼女らは伊藤に向かって生き生きと楽しそうにおしゃべりをした」
若いアイヌに日本語が急速に浸透しつつあることを示している。アイヌにも文明開化の波が押し寄せてきたのだ。(つづく)
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