1947 西尾幹二『GHQ焚書図書開封』 評・宮崎正弘

巨大な現代史の空白がなぜうまれたのか。GHQは日本の歴史と精神を抹殺するために多くの古典的良書に焚書を命じた。
戦後派と言っても小生は昭和21年生まれだから、戦前のことをまるで知らない世代である。
引き揚げ者一家だったので、父の郷里とされた金沢の親戚をたより、軍隊の宿舎跡を改造した「引き揚げ者聚落」に住んだ。昭和三十年まで。小生一家が割り当てられたのは、野村練兵隊の馬小屋を改造した粗末なもので、隣りとはベニヤ一枚の仕切り。向こう三軒両隣は満洲からの引き上げ組が多かった。
ある日、父親が五級スーパーというラジオを買ってきたら、たちまち隣近所から苦情がでた。性能がよすぎて、他の家のラジオが聞こえないというのだった。
毎日のように井戸端会議で聞かされたのはソ連兵の悪辣きわまりない粗暴な振る舞い、そして朝鮮人への不信感だった。
どれほど悲惨な目にあったかを周囲の口は語った。
引き上げ者の聚落は外地から命からがら逃げ延びてきただけに民族的絆で結ばれ、団結が強く、町内行事も多彩で、餅つき大会もあった。
町内運動会など五百人以上の参加、戦後の貧困の時代だからだった所為か、日本人は或る精神的な絆で結ばれていたように思う。
引き揚げ者村は地方行政の区割りにさからって勝手に「平和町」と付けた。共産党も強かった。
ものごころ付いたとき、日本は独立していた。主権は回復されていた。
あの時代の記憶と言えば、ともかく周囲にモノがなかったこと、おやつも手に入らず、米兵が通るとチューインガムを貰えるのではないかと思ったこと、近くの図書館に本が殆どなかったこと。町内でよく映画会があったこと。
近くの山や河でよく遊んだ。
♪「ウサギ追いしかの山、小鮒釣りしかの河―。
 
だから反米感情より先に反ソ感情が大きく、小学校では寧ろアメリカへの憧れを抱いた。あの環境ではアメリカが「正義」に映った。
それは物質への憧れを通して知ったアメリカの文化的な豊かさ、ハリウッド映画から知るアメリカの生活スタイル、やがてアメリカの小説を通して知った、かれらの考え方だった。
占領時期に日本の良書、古典、とりわけ日本をただしく評価した書籍が、GHQによって焚書処分をうけていたことなど知るよしもなかった。
高校生活は受験勉強の合間に生徒会活動や馬術部、そして文芸部に席を置いたが、小説濫読が趣味でスタインベックとか、ノーマン・メイラー、ドス・パソス等々。あの時代のブームとなっていたアメリカ小説を読んだ。
大学でわたしはヘミングウェイ、フォークナーを学び、トルーマン・カポーティを愛読し、ついには米国をしばしば旅行するようになった。
米国へ何回行っただろう?
数えたこともないが、レーガン政権のときは「アジア・ジャーナリスト・プログラム」に招かれ、クラアモント研究所に一ヶ月の招待セミナー、そのほかの取材でワシントンのシンクタンクも大方は周り、日米安保セミナーでは裏方を務めた。フォード元大統領やキッシンジャー氏とも会った。
ニクソン元大統領の著作も翻訳し、そのおりはニクソンに会いにNYのオフィスに押しかけて単独インタビューをしたこともあった。
それほど熱意を燃やした、あの米国への興味を突然、失ったのは前世紀の最終年、すなわち西暦2000年のことだった。
ある日、NYを歩いていて、見慣れた風景、文明の先端の行き詰まり、アメリカ人の精神の豊饒の喪失が不意にわたしの感受性を刺激しなくなったのだ。(この国からはもう学ぶべき事は何もないのではないか?)。
▼GHQの闇に挑む
西尾幹二氏が歳月をかけて取り組んだ本書は、占領中の焚書を一覧し、その経緯を克明に追い、さらには焚書となった書物の代表例を取り上げ、いったい何を基準にこれらの重要書物が焚書の対象になったのか、そのGHQの占領政策の背後にあった米国の意図と、その走狗となって対米協力したブンカジンや行政組織を、戦後63年目に満天下に明らかにした。
これは一つの文化事業でもあり、また独立主権国家であるとすれば、当然、これまでに国家事業として完了しておくべき作業だ。
数年前、西尾氏に誘われ、連続シンポジウム「日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったのか」に参加する機会があった。この催しは氏が主宰する「路の会」のメンバーが中心で徳間書店から記録は単行本となった。
これがおそらく本書の伏線であろう。
どういう書籍が焚書になったのか?
もっとも焚書された冊数が多いのは野依秀一である。
(へぇ、あの人が!)というのが率直な感想で、野依さんは知る人ぞ知る、その昔「帝都日々新聞」(日刊だった)の社主にして毎日、自分の新聞に健筆を振るった。大分県出身で、林房雄とも懇意だった。
その関係で林房雄も週に一本ほど同紙にコラムを書いていた。
小生も野依とは何回か会ったが、小柄な体格から迸るエネルギーを感じさせる人だった。
偶然にも独身時代にわたしが住んでいたアパートの大家さん夫人は、この野依さんの屋敷で女中をしていたという。やはり大分の人だった。
よく便所で、原稿を口述して、「その箇所は活字を大きく、これは活字を普通に」と指示していた。そういえば「帝都日々新聞」の社説は突如、活字が大きくなったりゴジックになったり、変化に富んでいた。昭和四十年代初期のころの話。野依の葬儀には森田必勝と出かけた。
帝都日々新聞は、野依の死去にともなって、その後、児玉誉士夫系列の人材が送り込まれ、「やまと新聞」と名前が変わった。
若手ジャーナリスト志望者が、このメディアを舞台に異色なルポなどを掲載した。いや、そんなことより野依さんのことだった。戦前の著作が二十三冊もGHQから焚書処分とされていたのだ。
いまとなってみれば『名誉』でもあるが。。
武藤貞一という人がいた。
戦前の活躍をわたしは何も知らないで、学生新聞を編集していた頃、西麻布にあった武藤邸に図々しく面会をもとめた。いまから40年前、氏はもちろん存命していて、『動向』という月刊誌を出されていた。
まったく戦前の歴史に無知な私を掴まえて怒りもせず、淡々と現下日本の劣情を憂う表情だけが険しかった。
武藤貞一は昭和十二年に『英国を撃て』(新潮社)を書いて、当時の大ベストセラーとなった。廬講橋事件直後には『廬講橋のあとに来るもの』をあらわし、初版五万部、人気絶頂の評論家でもあった。
西尾氏は、この本に着目し、あの時代は「イギリスが日本の主要敵だった」と時代のパラダイムを想起させてくれる。この本への論評も熱気が込められている。
武藤のところへ私が暫し通った記憶がある。理由はたぶん学生新聞へ、『動向』の広告を無心していたからだろう。武藤貞一著作集という広辞苑ほどの浩瀚本を頂いたこともあった。本箱を探してみたが、発見できなかった。私家版だった記憶がある。
同じ頃(ト言っても二年ほどずれるが)、石原慎太郎氏の事務所(当時、衆議院議員で都知事に出る前、中川昭一氏はまだ高校生だった)に行くと、石原氏が「おぃ、宮!)君。武藤貞一って誰だ」と分厚い著作を本棚から取り出すところだった。
「戦前の読売主幹ですよ」と言ったら、あ、そうと表情も変えず、読んでいる風でも無かった。この武藤貞一の著作も12冊が焚書の憂き目にあった。 
▼焚書にあわなかったブンカジンとの対比
本書を繙きながら、あれ、この人も焚書、あの本も焚書かと唸るばかりとなる。
徳富猪一郎、山中峰太郎、林房雄、尾崎士郎、長野朗、火野葦平、中野正剛、石原莞爾、保田輿重郎、安岡正篤、山岡荘八、頭山満、大佛次郎。。。。。。。
意外に武者小路実篤とか、坂口安吾、石川達三などの名前もある。
まさしく占領軍の日本精神、日本歴史抹殺政策は、日本から歴史書を奪い、日本を壊わされる時限爆弾としてセットされた。合計7000冊以上の良書が、秦の始皇帝の焚書のように闇に消された。
これらが消滅すれば、日本の精神の復興はままならないだろう。
ただ蛇足ながら、これらの良識古典が近年、つぎからつぎへと復刻されているのは、頼もしき限りで、徳富の終戦日誌は全四巻、林の大東亜戦争肯定論は数年前に再刊されたが、これらは戦後の作品。
戦前の復刻が続くのは安岡、頭山、保田らである。
この空白期を巧妙にうめて日本の出版界を左翼の独占場とした。
GHQがそこまで目論んだのか、あるいはGHQ内部に巣くったソ連のスパイたちが日本の左翼を扇動し、行政やブンカジンの協力を強要した結果なのか。
焚書の対象とならなかった作家を一覧してみると或る事実が了解できる。
小林多喜二、林芙美子、宮本百合子、三木清、尾崎秀美、河上肇、美濃部達吉、大内兵衛らの諸作は焚書の対象から巧妙に外されていた。日本の協力者がGHQにリストでも渡さない限り、このように「正確」な書籍の選択選別は出来なかっただろう。(これらの貴重なリストは巻末に溝口郁夫氏作成として掲載されている)。
西尾氏は、この労作『GHQ焚書図書開封』(徳間書店)を通じて「米占領軍に消された戦前の美しい日本」と「簒奪された私たちの歴史」をいまこそ取り返そう、現代日本史の巨大な空白を埋めようと提言されているのである。
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