元亀二年(1571)五月、小田原の北条氏政は下妻城の多賀谷攻めを行った。この年の八月にも氏政は下妻に攻め込んでいる。小田原勢には結城と梁田の軍が先鋒となり、多賀谷勢には佐竹の軍が来援するという構図になっている。
五月合戦の舞台となったのは下妻城外の古沢村。多賀谷、北条の両軍が激突した。この戦いで多賀谷の武将・赤松美濃常範の力戦が目覚ましく、応援に駆けつけた佐竹義重が激賞するほどの働きであった。
佐竹義重が赤松美濃に下した感状は、現在も八千代町教育委員会蔵として保存されている。城主の多賀谷政経は、赤松美濃の戦功に対して古沢村を知行地として与えた。
さらに赤松美濃に対して古沢美濃常範を名乗るように命じている。
「下妻市史」は多賀谷氏の興亡について詳しいが、鬼怒川対岸の赤松氏にはあまりページを割いていない。元亀二年の古沢村の戦いは、むしろ「八千代町史」の方が詳しい。佐竹義重感状の写真も掲載してある。
戦国時代の下妻地方について「多賀谷氏の事績を語らなければ、下妻の歴史は成り立たない、といっても過言ではない。(地方史家・菊池正生氏)」というのが、この地域に住む人たちの思いではないか。
それはそれとして、多賀谷政経から古沢を名乗る様に命じられた赤松美濃は、鬼怒川西岸に根拠地を持つ赤松一族もすべて古沢姓に改姓させている。関城町の西村市郎兵衛家に伝わる「常州下妻城主多賀谷修理大夫家中諸士」によれば、三百石以上の上士百三十人のうち古沢姓を名乗る武士は古沢助大夫の八百五十石を筆頭に六人にのぼっている。
現在でも八千代町には古沢姓が固まって存在している。川尻にある赤松山不動院には赤松氏の墓所があるが、赤松と古沢の墓碑銘がある。多賀谷氏が滅亡後、土着した古沢氏たちの中には赤松姓に戻る者が出たという。
川尻・赤松氏の宗家は「九曜」の家紋を用いた。八千代町の「歴史民俗資料館」に展示されている兜には、中央の大丸を囲んで八つの丸がつく九曜家紋が、兜の額部分についている。
「九曜」は「九星」とも言い、平良文を祖とする関東の武将・千葉氏も用いた。千葉氏は妙見菩薩を守り神としたが、妙見は星の形で表現され、妙見菩薩は天体の運行をつかさどる神とされた。
赤松山不動院の墓所に行くと、宗家の墓碑を囲む様にして赤松家と古沢家の墓が並んで建っている。「上り藤」と「丸に蔦」家紋の二つである。(つづく)
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