「夜のプラットホーム」
作詩 奥野椰子夫 作曲 服部良一 歌 二葉あき子。
敗戦後昭和22(1947)年の流行歌だが、実は違う。昭和14年、当時は淡谷のり子がレコードに吹き込みをしてコロムビアレコードが発売。しかし世には出なかった。
戦後生まれの人には信じられない制度「検閲」により「発売禁止」処分となったからである。
1 星はままたき 夜ふかく
なりわたる なりわたる
プラットホームの 別れのベルよ
さよなら さようなら
君いつ帰る
2 ひとはちりはて ただひとり
いつまでも いつまでも
柱に寄りそい たたずむわたし
さよなら さようなら
君いつ帰る
3 窓に残した あのことば
泣かないで 泣かないで
瞼にやきつく さみしい笑顔
さよなら さようなら
君いつ帰る
昭和13(1938)年の暮、東京・新橋駅で出征兵士を見送る歓呼の声の中に、柱の陰で密かに別れを惜しむ若妻の姿があった。我が大君(天皇)に召されての名誉の出征に、妻が人前で泣く事は許される事ではなかった。
若妻にすれば旅立つ夫はもはや生きて還ることのないかも知れぬ運命である。さよなら さようなら 君いつ帰る 悲痛な叫び。これを知らない最近のアナウンサーは単なる旅立ちを何故、こんなに悲しむのかと訝る。
新橋駅でこの情景を目撃した都新聞(現東京新聞)学芸記者奥野椰子夫がコロムビアに入社して翌昭和14年1月に作詞したのがこの歌。しかし中国との戦時下、女々しいと「発売禁止」。
<明治維新後の日本の言論統制は,どの国にも劣らぬほど厳重なものであった。日本の民衆を狂気じみた超国家主義や軍国主義に導いて太平洋戦争の悲劇を招いた原因の一つは,その強力な言論統制にあったといってよい。
満州事変以後のファシズム時代の言論統制は一段と厳しさを加え,自由主義を含むあらゆる反ファシズム言論の息の根を止めた。
すでに最初から政府の監督下にあった日本放送協会のラジオに対する統制を強化し,他方では用紙,フィルムなどの資材統制を武器としながら,新聞,出版,映画,レコードなどの企業を強権的に整理統合し,全メディアの支配権が政府に握られていった>。平凡社世界大百科事典。
国を挙げて戦っている。戦意高揚。それに反すると認められたものはすべて排除された。現行憲法下で育った人々には想像もつかない「国家統制」が存在したのである。
作曲の服部良一(大阪出身)は諦めきれないと詞も題名も英訳し「I‘m waiting」と「洋楽版」に、カムフラージュ、作曲者もR・ハッターとして検閲を逃れた。これを知らない世代はR・ハッターを外国人と思って捜している。
戦争が敗戦で終わり、検閲はなくなった。3度目の正直。二葉あき子歌でヒットしたのが昭和22年だった。
戦後、さらにヒットした高峰三枝子の「湖畔の宿」(昭和15年)も途中で発売禁止になったが、内務省が気がついた頃は既にかなり売れた後だった。社会思想社版「新版日本流行歌史」(中)。2008・06・22
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