諺文と呼ばれるハングル文字は、1446年、李氏朝鮮の世宗が作成したといわれている。(訓民正音)
現在「諺文」という言葉は蔑称とされ、ハングル文字と通常呼ぶが、このハングルという呼ばれ方は、1913年頃に初めて登場し、1927年には「ハングル=大いなる文字」という言葉が定着したようだ。
15世紀に登場したハングルであるが、その後単発的に詩歌・文学作品で使用されてはいたが、「文字」としての体系は整っておらず、国民一般には普及しなかった。
この「ハングル文字」にいち早く目を付けたのが、日本人なら誰でも知っている「福沢諭吉」である。福沢は「教育の普及が近代化の第一歩である」という信念から、朝鮮においても啓蒙を担う文字の重要性を説いていた。
そこで、日本の仮名と似ているハングルに注目し、一般国民にも文字を読むことが可能になるハングルの利用を強く勧めることになった。福沢はこうも言っている
「朝鮮の独立と朝鮮人の啓蒙には、朝鮮語による新聞の発行が不可欠である」
彼のこの言葉に大いに理解を示したのは、誰あろう安重根に暗殺された伊藤博文だった。
福沢諭吉の門下生に一人の男がいた。その名を「井上角五郎」という。実業家・政治家という面だけが表に出ているが、「井上がいなかったらハングルは無かった」とまでいわれた人物である。
彼は、朝鮮王朝政府時代、優秀な朝鮮人官吏とともに1883年に一定の体系と継続性を持った朝鮮初の近代新聞「朝鮮旬報」、そしてその続刊ともいえる「朝鮮週報」に大きく係ったということは、日朝文化史の上からも非常に興味深い。
朝鮮初の近代新聞「朝鮮旬報」は全文漢字でありハングルは使われなかった。何故なら当時の大韓帝国では、ハングル使用には非常に抵抗があり、認められなかったという経緯があった。
その後クーデターなどのトラブルに巻き込まれ、志半ばにして井上は一度朝鮮を離れることになる。しかし、彼が蒔いてきた種は確実に育っており、朝鮮人官吏、学者らが、文法的にハングルをまとめていたのだった。
そして後年、井上にまた訪朝のチャンスが訪れ、日本で作成したハングル「活字」を携えて海を渡った。
1886年、漢字とハングルを使用した「朝鮮周報」が発刊されることとなった。部数は3000部と少なく、結局新聞自体は庶民に浸透しなかったが、彼が目指した「教育の普及が近代化の一歩である」という意思は、その後、朝鮮語字典、そして朝鮮総督府による義務教育の普及へと繋がっていくのである。
韓国でいう「日帝時代」が終わり、暫くして韓国は「漢江の奇跡」を成し遂げ世界を驚かせた。その主役である「朴正煕大統領」は、後年「中曽根氏=後の総理大臣」との会談で次のように話したという。
<私は、貧農の生まれで、学校に通うなど思いもよらなかったが、日本人の役人が両親を説得して小学校に行くことができた。そしたら学校の教師が、お前は頭が良いから、無料の師範学校へ行ったほうが良いと推薦してくれた。
師範学校では、更に優秀さを認めてくれて、陸軍士官学校に推薦してくれた。その結果、士官学校主席として答辞を読むことが出来、陸軍将校になることが出来た。今の私が有るのは、清廉で誠実な日本人のおかげである。>
富士川きよし・井上角五郎、歴史の表舞台には出てこない人物であるが、その清廉さと誠実さは、日本人として誇りに思うべきである。
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1965 ハングル新聞を創刊せよ hideおじさん

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