1972 韓国、クーデターの可能性 平井修一

我が国には朝日新聞など容共左派の言論が満ちあふれている。日本新聞協会に加盟する109紙の2007年度の一般紙発行部数は4696万部で、産経と読売に代表される「保守派・どちらかというと保守派」は1500万部ほどだから、3分の2は容共左派だろう。
しかし、共産主義を正面から唱える新聞はまずないだろう。共産主義は煎じ詰めれば「一党独裁」で、民主主義は圧殺される。言論の自由はなく、権力者に合わせて口をパクパクするだけである。中共のネット紅衛兵のように。
韓国の民主主義と言論の自由はここ20年の歴史しかない。つまり戦後の40年間は北の共産主義と厳しく対峙していたため主に軍事独裁政権下にあった。この間、北は韓国に工作員を送り、あるいは洗脳し、強力なネットワークを作ったろう。
北から学資を得ていたと見られる二人の大統領、金大中、ノムヒョンはほとんど北の代理人であった。政権トップがアカだから政権中枢や行政府などは学生運動の前科者も多数採用された。
アカは、選挙に勝って政権をとるなんて絶対に考えない。政権は銃口から生まれるという「暴力革命」であってこその共産主義である。反対者を皆殺しにして党と人民を純化し、屍と焦土の上に鉄の団結を築くのが正統派である。
「帝国主義の内部崩壊を待つというのは、マルクス主義の本質的なダイナミズムを無視したものである。革命家は、忍耐強い傍観者として資本主義の瓦解を待つことはできない。革命家の役割は、最終的危機を促進することである」(P&M.ファーブル「マルクス以後のマルクス主義」)
韓国のアカは「李明博政権はあと少しで倒れる、手を緩めるな、苦しいけれど、奴らも苦しいのだ、押して押して押しまくれ!」と思っている。共産主義に無知・無防備だから、北を良い国、日米を悪い国と考える国民は多いのだ。民度が低いと民主主義と自由は暴走する。
東亜日報6月28日社説「暴徒と化したデモ隊にいつまで踏みつけられるのか」。
<デモ隊は暴力デモを批判した新聞社と記者にも無差別に暴行を加えた。レインコートとマスクで顔を覆ったデモ隊は、世宗路にある東亜日報と朝鮮日報および系列ホテルの社屋に押し寄せ、出入り口のガラスの窓を石で割り、制止する戦闘警察隊とホテル職員に暴行をはたらき、建物の社名のロゴを引きはがした>
大陸のDNAなのだろう、面目躍如の狂牛ぶりで、
<建物に汚物を投げつけるだけでは足りず、出入口にごみを捨て、小便をかけたりもした。彼らは東亜日報の社屋前の掲示台から太極旗(韓国国旗)と社旗を引き下ろし、ごみ袋をつるして拍手し歓呼した>
アカにとっては牛肉なんてどうでもよく、危機を煽って混乱させ、内乱を起こして革命政権を樹立、北主導で南北統一を図るのが大戦略なのだ。敵を血祭りにする。
<一部デモ隊は、デモ現場を取材していた本社写真部のピョン・ヨンウク記者をつかまえて殴りつけ、記者が逃げるとまたつかまえて「服を脱がせて殺せ」と叫び踏みつけた。ピョン記者は失神し病院に搬送された。25日夜には朝鮮日報の記者がデモ隊につかまって1時間暴行を受けた。紅衛兵の人民裁判と大差ない蛮行だ>
アカはすっかり戦闘モードである。ソウル市役所前の広場と光化門交差点が2ヵ月にわたって暴力デモに制圧され、6月5日から始まっているはずの国会も開けない状況だ。「それどころか国会議員の一部は国会に背を向け、不法デモの現場へ出向いている」という。煽動しているのだろう。
<狂牛病国民対策会議は「政権退陣運動も辞さない」と公言した。デモの現場では「非暴力を主張するなら家に帰れ」という言葉が公然と聞こえる。ポータルサイト・ダウムの討論ルームには「まだ闘いは終わっていない。生半可な非暴力の論理でお茶を濁ごすのではなく、決定的な瞬間に公権力を完全に無力化しなければならない」といった主張も溢れている>
政府は拱手傍観、ほとんどなす術がないようだ。李明博は元活動家の前科者(国家内乱扇動罪)という負い目もあるからアカの暴力を力でねじ伏せるという決断ができない。今はビジネスマンで思想性が希薄なために商談はできても腕力の喧嘩はできない。
アカから死人が出ればアカは大喜びで、一気に攻め立てるというのが伝統的戦法であるから、これを恐れているのだろう。政府が決断できず、国会が開けないとなれば、軍事クーデターで事態を沈静化するしかない。
これは韓国の伝統的なやり方で、1961年5月16日、後に大統領になる朴正煕少将(第2野戦軍副司令官)による「5・16軍事クーデター」は10万人の赤い学生デモを鎮圧した。文民の張勉内閣にはこれを抑える力がなかったという。
1979年10月26日、その朴大統領と車智澈大統領府警護室長が金載圭韓国中央情報部(KCIA)部長に射殺された。金載圭は、反政府学生らが釜山の米国文化館を占拠した事件について、朴大統領らから学生運動の弾圧が生ぬるいとして無能をしばしば叱責されたため犯行に及んだもの。
朴大統領暗殺後、韓国は「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードが続いていたが、軍部は保守派と民主派に分裂していたようである。1979年12月12日、全斗煥陸軍少将が、戒厳司令官の鄭昇和陸軍参謀総長を逮捕し、軍の実権を掌握した(粛軍クーデター)。全国各地で反軍部民主化要求のデモが続いていたが、全斗煥の新軍部は1980年5月17日、全国に戒厳令を布告し、野党指導者の金泳三、金大中や、旧軍部を代弁する金鍾泌を逮捕・軟禁した(5・17非常戒厳令拡大措置)。
これに反発した活動家ら1980年5月18日から27日にかけて全羅南道の道庁所在地、光州市で韓国軍と衝突し、多数の死傷者を出した(光州事件)。
2008年6~7月の危機を李明博は乗り切れるのか、それとも軍事クーデターが起きるのか。元アカの小生が思うに、北の勢力=デモ隊は今のチャンスを逃したら赤化統一は大きく遠のくと覚悟しているから絶対に引かない。
街頭デモとゼネストでソウルを制圧するだろう。小生が韓国軍の幹部なら同士を募って連判状を作るだろう。小生が大統領なら革命またはクーデターが起きる前に最高司令官として戒厳令を布告するが、どうなるのだろう。目が離せない政局になってきた。(参考:ウィキ)
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