1973 誇るべき日本人らしさ 加瀬英明

新年に、後輩の見合いをとりもった。
大任を終えて安堵しながら、ホテルの回廊を歩いていたら、日本人にとって日常性から縁遠いインテリアがひろがっていたので、ふと外国にいるような錯覚にとらわれた。
まるで、翻訳劇の舞台装置のようだった。私は『福翁自伝』の一節を、思い出した。
福沢諭吉は幕末に遣米使節団の下僚として、アメリカに渡った。その後、竹内下野守を正使とする三使節が率いる遣欧使節団の「一番下席」の団員として、ヨーロッパを訪れた。
一行はパリでも一流のホテルに泊まった。福沢はそのロビーの場面を描いている。
「三使節のひとりが便所に行く、家来がボンボリを持ってお供をして、便所の二重の戸をあけ放しにして、殿様が奥の方で日本流に用を達すその間、家来は袴着用、殿様のお腰の物を持って、便所の外の廊下にひらきなおってチャント番をしている。
その廊下は旅館中の公道で、男女往来織るがごとくして、便所の内外ガスの光明昼よりも明なり」
明治4年に右大臣だった岩倉具視を大使とする使節団が欧米を巡遊したが、200余日の旅行中、臆することなく日本の作法をもって処した。そのために、アメリカにおいても、ヨーロッパでも行く先々で敬意を払われた。
文化人類学者はこのような所作を、「カルチュラル・コンフィデンス」(文化の形を恥じないこと)と呼ぶ。ひとの目を窺う者は、自分を持っていないから見苦しい。
私は園田直(すなお)外相の顧問をつとめた。本人は「直(ちょく)さん」といわれるのを厭がったが、私は親しかったから、特権のようにそう呼んだ。思想的には私が嫌ったハト派だったが、私なりに外相の家庭教師を気取って手助った。
園田氏は西洋の顕官の前でも、スープを大きな音を立てて、堂々と啜った。柔道、剣道、居合道、合気道を合わせて30段という武道家だったから、カルチュラル・コンフィデンスを備えていた。
日本人は茶であれ、御神酒であれ、啜る。軍歌『父よ、あなたは強かった』が、「泥水すすり草を噛(は)み」とうたっているが、私たちにとっては赤出しであれ、ビシスワーズであれ、飲むものではない。啜るのだ。
武道は心と技が合うことによって、成立つ。武道の達人だったから、衒(てら)うことがなかった。音をたてて啜っても、日本人らしかったから見事だった。
直さんは大平内閣の外相もつとめたが、その時に日本においてはじめての先進7ヶ国(G7)サミットが催された。その後、G8になったが、今日でも日本だけが非キリスト教徒で、有色人種の国である。
ホスト国の大平首相を中心に、首脳たちが記念撮影に収まった。私は日本を誇らしく思ったが、いや、私たちが他のアジア諸民族と違って、西洋を模倣することが上手だったからではないかと訝った。
そして、先人たちがなぜ明治維新を行ったのか案じた。維新には、3つの目的があったにちがいない。まず日本の政治的独立を全うし、経済的な独立を守るためだった。3つ目が、文化的な独立を守るためだった。
私たちが西洋を模倣したのは、あくまでも手段であって、西洋に追いつき並ぶためだった。しかし、そうするうちに、手段と目的を混同してしまったのではないか。
西洋の猿真似をするようになってから、日本人は日本人らしさを失うようになった。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト(6月12日現在1932本)

コメント

タイトルとURLをコピーしました