1983 濁酒作りの名人 渡部亮次郎

濁酒(だくしゅ=ドブロク)作りの名人とはわが母だった。先年98歳で夕食が美味しかったと言った直後に死んだ。元気で長生きぽっくりでGNP。大方の理想とする死に方である。
勿論、個人でアルコールを製造する事は日本の場合、法律で禁じられており、母も1度は摘発されて罰金刑に処せられた。しかし舅たる我が祖父、日露戦争の喇叭手は嫁の作った濁酒以外の酒は呑まないのだから仕方ない。
酒を仕込むためには麹が要る.その種麹を買いに行かされるのが次男たる私の役目。対米戦争中から町内の麹屋に通った。つまり小学生時代から脱法行為に加担していたのである。大袈裟?
麹(こうじ)とは、米、麦、大豆などの穀物や精白するときに出来た糠などに、コウジ菌などの食品発酵に有効なカビを中心にした微生物を繁殖させたもの。
日本酒、味噌、食酢、漬物、醤油、焼酎、泡盛など、発酵食品を製造するときに用いる。ヒマラヤ地域と東南アジアを含めた東アジア圏特有の発酵技術である。
麹の作り方。別途培養した麹菌胞子である種麹を、蒸した原料に散布して製造する方法と、以前に製造した麹の中から良質なものを保存しておき、新たに麹を製造する際に蒸米に加えて用いる方法がある。後者の方法を共麹(友麹とも)と呼ぶ。
現在の日本では、もっぱら前者の方法が採用されており、麹を製造する際には種麹を専門に製造する業者が供給する種麹を利用する場合が多い。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
母は変わった人だった。偏食を絶対、とがめなかった。また、好きな物は子供でも食べて良かった。濁酒も。「体が呼んでいるんだから」が理由だった。当然、私は小学生ながら酒の味を覚えた。
4つ年上の兄は当然、弟より悪で、爺さんが清酒を飲んでいる時代、酒屋に買いに行かされると、帰る途中、2口、3口呑んでしまい、井戸水を足して帰った。祖父は日本酒がこの頃、水臭くなった、戦争の所為だな、と嘆いたそうだ。
お袋の手順を見ているからある日、兄と一緒に隠れて濁酒製造に挑戦した。毎日、発酵具合を見るべく味見をするのだが、発酵が進まず、甘酒のまま呑みおえてしまった。
母のは3日ぐらいで完成する。少し甘味が残り、アルコール分は十分。何度作っても味は一定していたから名人である。祖父は夕方を待ちきれず、それを瓶から土鍋に汲みだし、囲炉裏で暖めて茶碗で飲むのである。
なるほど濁酒は清酒のようなツンとした刺激臭がなく、なんとなく牛乳のように飲める。祖父としてはそれがたまらなく美味しかったのだろうと思う。母は祖父が80歳で死ぬまで濁酒を造り続けた。
当時、農村では税務署といえば密造酒の摘発隊のこと。後年、秘書官としてつかえた外務大臣園田直(そのだ すなお)さんは、特攻隊生き残りで地元の町長を務めていたころ、摘発隊たる税務署員ちに消防ポンプで水をかけて撃退していた。「日の丸共産党を名乗っていたな」と回想していた。
わが祖父は私が大学2年の夏、脳溢血で倒れた。大きな鼾をかいて意識不明。7日目の朝、母が吸いさしに清酒を入れて口にさしたらとくとくと呑んでその直後に息絶えた。
若い頃からの祖父の酔態の醜さを見聞していたから、その息子たる父は酒は呑めたが呑まなかった。祖父が清酒を呑んで逝った吸いさしで砂糖水を飲んで死んだ。80歳。呑んでも80、呑まなくても80。
最早、私と濁酒の縁は薄くなった。僅かに月に1回、錦糸町で懇談する会でNHK時代からの友人大谷英彦氏が朝鮮半島の酒マッコリを呑むのを横目でみているだけである。
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