1988 “風は海から”を拝読して 河邉昭義

NETをさまよっているうちに、堀江朋子女史の“新宿・うら道・唄につれ”の“風は海から”にたまたま出会いました。私にとって、風は海からは、昭和21年ごろ始めて耳にして以来60余年の愛唱歌・唯一の私の持ち歌であり、思い入れもたいへん深いものがあるだけに、驚きと感激の念醒めぬまま、メールします。
昭和20年8月、日本のすべてが崩壊しました。私どもの住んでいた満州奉天も、まず八路軍、次にソ連軍、そして国府軍の占領下に置かれ、日本人の苦難の生活が続きました。そして、それなりに落ち着いたときに、日本映画の上映が行われました。“阿片戦争”は、その内容が、戦時下昭和18年の製作にかかわらず、日本軍国主義が薄いと判断されて上映許可されたと思います。
昭和4年生まれの私は、当時大学予科の1年生、戦後ある程度の授業が再開されはしましたが、自由の時間は多く、善友悪友と連れ立って、樽で仕入れた味噌を盛り場で売ったり、コーヒー屋を開いたり、などなど、親の苦労はわかってはいるものの、自らの小遣い稼ぎの方に多忙でした。そしてその状況の中で、確か平安広場の平安座だったと思いますが、阿片戦争を見たのです。
映画そのものについては、ちょっと生意気な言い方ながら、それほどの感銘をもたらさなかったような記憶ですが、盲目の美少女麗蘭こと高峰秀子さんと、彼女の唄う哀切極わまりない風は海からに、すっかり心を奪われました。なお平安座には21年6月の引揚げまでにもう一度行つたような覚えです。(引揚げといえば,無蓋車でコロ島まで、筆者と同じ苦労を経験しました)
風は海から吹いて来る
沖のジャンクの帆を吹く風よ
情あるなら教へておくれ
私の姉さん何処で待つ
青い南の空見たさ
姉と妹で幾山越えた
花の廣東夕日の街で
悲しく別れて泣かうとは
風は海から吹いて来る
暮れる港の柳の枝で
泣いているのは目のない鳥か
私も目のない旅の鳥
この歌詞は、東宝が保管していた阿片戦争の脚本帳から写しとったものです。就職後,ときに奉天同窓の仲間が集まった折、風は海からが歌われたとしても、その歌詞は各自微妙に食い違っていました。
昭和30年代か40年代か記憶があやふやなのですが、思い立つて、日比谷の東宝本社を尋ねました。私の意を聞いて、ご担当がお粗末なわら半紙にガリ版刷りの阿片戦争のシナリオを持ってきてくれました。1枚1枚めくっていくうちに、ありました、ありました、風は海からの全文歌詞が。
コピーは断わられましたが、写しを取るのはかまいませんと、東宝社名入りの用紙を準備していただきました。なお、歌は高峰秀子となっていました。
コンパの2次会、3次会は、縄のれん・赤提灯と相場が決まっています。帰り道の神楽坂、高田馬場方面でよみがえった歌詞でその普及に努めても、力弱く、メジャーになりません。(これは渡辺はま子さんのレコードはあるものの、もうひとつ会社として力を入れなかった故かと思いますが如何のものか)
堀江朋子女史のエッセイ、心楽しく読ましていただきました。そして、文中の中村さん、マレンコフさんその他登場の方々については、仮名、虚構があり、そしてなによりも堀江女史ご執筆の時期と現在では、たぶん相当のタイムラグがあり、難しいことかと存じますが、関係者一同が健康でお目にかかりたいものだの思いが募ります。廣東まで届けと“風は海から吹いてくる”を唄いましょう。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト(6月30日現在1990本)

コメント

タイトルとURLをコピーしました