1994 原敬夫人遺聞 志賀節

原敬夫人・浅さんの甥で、毎日新聞社社長だった上田常隆氏から聞いた話だ。「新派顔負けの話。それも第一幕から第三幕まであるドラマです」と上田氏は前置きして「第一幕」といった。
中岡良一の凶刃に東京駅頭で仆(たお)れた原敬の遺骸は駅長室に運びこまれた。変を聞いて人々は駆けつけた。夫人は夫君の枕頭に座し、原敬が総裁をつとめる政友会の領袖は窓辺に寄って鳩首会議だった。
やがて領袖の一人が夫人に近寄って、通夜、荼毘(だび)、密葬、告別式や党葬の段取りが一決したことを告げた。その時、夫人は凛然としていい放った。
「ご免蒙ります。原が生きているあいだはお国のもの、あなた方のものとして差し上げておりました。けれどもこうなっては、私だけのものでございます」そういって涙一滴見せぬまま、夫人は遺骸を芝の私邸にさっさと運んでしまった。
墓の深さにこだわり
「第二幕」と上田氏はいった。
清められていた私邸の奥の院の蒲団の上に、遺骸は安置された。夫人は家の子郎党を前にして、相変わらず涙も見せずにこう告げた。「今宵は原と最後の夜、二人だけで過ごしたい。誰も来ないでほしい。どんなことがあっても来るでないよ」
ところが宮中から勅使が見えたのだ。やむなく奥の院に取次に行った者が目にしたのは、夫君の遺体に取り縋(すが)ってよよと泣きくずれる夫人の姿だった。
「第三幕」と上田氏はいった。
盛岡市大慈寺の境内。穴の中の墓堀り人足に上から夫人がさかんに声をかけていた。「奥様は何でそんなに厳密に深さを何尺何寸とこだわりなさるのですか」と供の婦人が尋ねた。
夫人は答えた。
「私もいずれ死にます。死ねば原の隣に葬られます。その時、私の方が原より浅く葬られれば、永久に原を見下していなければなりません。深ければ、永久に見上げていなければなりません。それでは頸(くび)が疲れるではありませんか」
政界に進出する前、原敬は毎日新聞社の前身、大阪日々新聞社の社長だった。原にとって、だから上田氏は義理の甥に当たるだけでなく、同じ新聞社社長の後輩でもあった。
なお、原の私邸は、芝大門の近くの芝パークホテル脇、現在の全国たばくビルのあたりにあったという。(杜父魚文庫から再録 筆者は元環境庁長官)
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