1995 触らぬ妻に祟りなし 平井修一

「触らぬ(障らぬ)妻に祟(たた)りなし」と、突然言葉が浮かんだ。強迫観念からこんな言葉が出てきたのだろう。どうしたらいいものか。どげんしたらよか? 分からん。
その一方で、こんな思いもある。
<食とか味覚とかは、個人、国家、民族の誇り、歴史、文化など琴線にもかかわることだから、自分の一方的評価で論じると予想外の反論を招くことになる。それにしても「天一」ラーメンの熱狂的ファンがずいぶんいるんだなあ、畏るべし!>
小生だってお気に入りの店を非難されたら「カチン」と来る。ファンの¥言葉も紹介すべきだった。ファンの皆様、ごめんなさい。
「カチン」と言えば、我が妻の話である。昨夜は喧嘩した。庭にドクダミを干すのだが、天気が心配なので「雨が降ったら取り込んでね」とメモを書いておいたものの、午後10時過ぎに帰宅して、「取り込んでくれた?」と問えば、「雨が降らないから取り込んでない」と、韓流ドラマを見ながら平然と言う。
そもそもこのドクダミはカミサンのお通じのために、カミサンの指示により、小生が刈り取って乾燥させているもので、すべてカミサンのためなのだ。
それを他人事のように「わたしゃ知りません、そんなのアンタの勝手でしょ」と漱石の鏡子夫人のように言われたら、温厚な晩年を歩みたいという“左翼更生派”の小生だって「カチン」と来る。
で、俺はカミサンには怖くて言えないから長女に堂々と言ったよ、「もうドクダミは捨てる!」(外交上のポーズ)。ポリ袋にドクダミを詰めていると長女が「後はあたしがやるから、パパ、もう寝なさい」(第三国の調停期待)。
翌朝、庭に出たら、おっとビックリ、カミサンがドクダミを干している!久し振りの外交的勝利だ。「やったあ!」。11連敗でようやく片目が開いた。トホホホ、泣けるなあ。
教育学者のジョン・デューイ著「学校と社会」には、「理想的な家庭」についての記述がある。
<両親が聡明で、子供のために最善なるものを見分け、必要なものを与える能力を持っているような理想的な家庭がここにあるとしよう。
そこでは、おそらく子供は家族の間の世間話や、その家族のしきたりを学んでいるに違いない。会話の中には子供にとって興味深いこともあるだろう。子供はあれこれ言って、質問をする。いろいろな会話の中で子供は不断に学習する。
子供は彼の経験を語り、その考え違いは訂正される。家事を通じて子供は勤勉、秩序、他者の尊重などの習慣が養われ、自分の活動を家族全体の利害に従属させる基本を得る、云々>
以上の文章を我が家はまったく知らなかったが、家庭とは「教え育(はぐく)む」教育の場であり、動物園のような飼育の場ではないということで、子育て時代の小生とカミサンは価値観がほぼ一致していたから、まあ、無事に子供たちが巣立ったのはメデタイ。
カミサンとは「天一」をめぐるような深刻な対立もなく、今の最大の悩みは愛犬のメタボ肥満問題で、ドクダミなんて実はどうでもいいことなのだ。
しかしながらこの犬は親孝行で、しばしば我が和室の布団を占拠する、そのために押し出された小生は洋間のカミサンのベッドにもぐりこむ、抱きしめるとムニャムニャとうれしそうだ。が、そこまでで終わり。それ以上はアンタッチャブルの世界で、「触らぬ妻に祟りなし」と、ようやく標題に戻った。ああ疲れた。
こういうのを駄文と言うが、人生の真実とか、男の哀歓とか、教育論とか、夫婦のキビとか、なんか面白おかしく感じ取っていただいたら幸いです。
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