たまにしかテレビを見ないが、腹が立つのは、間断なくけたたましい笑い声が流れてくるのと、食べ物番組が多いことだ。
ニ六時中、落語か、漫才の寄席に身を置いているようだ。人は息抜きのために笑うべきであって、朝から晩まで笑っているのでは、腰が抜けてしまう。
そのためか、このごろの日本人は、腰が据わっていない者が多い。「脚を開いて、歯を食い縛れ!」と号令を掛けて、ビンタを張りたい衝動に駆られる。
たしかに、笑いには重要な効能がある。笑いも、水や火と同じように、生きてゆくために欠かすことができない。だが、過剰になると、洪水や火災をひき起こす。
日本人は「今日はよい天気ですな、ハハハ」とか、「また雨ですな、ハハハ」、「いつもお世話になっております、ハハハ」といって、よく笑う。
社交的な嘶(いなな)きのように羞(はじら)って、照れ隠しのために笑うのだが、日本独特の笑いである。このような笑いは快(こころよ)いものだ。
日本人は「ジャパニーズ・スマイル」といわれるが、西洋人から見ると不可解な微笑を湛えている。しかし、笑顔ほど素晴しい贈物はないから、誇りにしたいことだ。
テレビが饒舌なのも、国民精神を蝕んでいる。もともと、言葉はエゴを主張するためか、言い訳をするために用いられるものだ。誠がある人は、寡黙だ。
戦後の日本の学校教育が子供たちに、多弁であるほうがよいと教えてきたのは、大きな誤りだ。討論とか、自己表現に力を入れているが、口先がうまいことを奨励するべきではない。
『論語』に「巧言(こうげん)令色(れいしょく)鮮(せん)矣(少なし)仁(じん)」といって、仁を欠く者は、口先がうまく、人を喜ばせて、諂(へつら)うと戒めている。
テレビは落着きがない。下賤であって、日本の作法と相容れない。
日本人は長いあいだにわたって、「間(ま)」を重んじてきた。間合、間をはかる、間をとる、間が抜けているというが、邦楽や舞踊や演劇だけではなく、日常生活においても間をとることによって、正しい律動がもたらされてきた。
多くの若者をみていると、テレビのブラウン管から飛び出したような者が多い。テレビの放映を1年間禁じたら、日本はまともな国になろう。
チャンネルをまわすと、何が美味しいかという食べ物番組を、朝から晩まで流している。これほどテレビで食べ物番組が多い国は、世界に他にない。
タレントとか、セレブといわれる人たちは、何十万人という人々の前で食べることが、恥しくないのか。
経営者の中にも、どの店の何が旨いとか、おいしいとか、好んで話題にする者が少なくないのに辟易させられる。
食べるということは、セックスや排便と同じような生理活動であって、本来は秘め事であるべきものだ。だから、よほど親しい相手でなければ、話すべきことではない。
男であれば、何が美味しいとか、不味いとか、口にしてはなるまい。
食べることに執着することは、精神病理学ではオーラル・フィクゼーション(口腔執着)といって、幼児がオシャブリを啣(くわ)えてはなさないような、幼児的なことである。どうも社会が幼児化しているようで、日本の前途が暗いように思える。
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