2001 土の匂いを伝える 古沢襄

梅雨の晴れ間で少し蒸すが、久しぶりに浅草にでて、隅田川沿いを散策して、川風に吹かれたい気がする。東京に生まれ、東京で育った私だが、地方と都会が混然としている様な不思議な街・浅草に惹かれる。
子供の頃、両親に連れられて隅田川のポンポン蒸気によく乗せて貰った。川下りをした船付場の近くに大阪寿司の店があって、入り口の鳥かごの九官鳥が「お早う!」と叫んでいた記憶が鮮明である。子供心にも下町の江戸情緒が深く刻み込まれている。
自由が丘や田園調布の様な気取った街と異なって、サンダル履きのジャンバー姿で歩くことができる気楽な街が浅草である。武田麟太郎や高見順、新田潤といった文士が愛した街でもある。
もっとも戦後の浅草は高層ビルが立ち並び、ポンポン蒸気も立派な遊覧船になっていて、江戸情緒も薄れている。それでもビルの谷間に昔風の店がある。昨年の暮に、そこで秋田料理を食べた。
今は信州の佐久に引っ込んだ友人の一ノ瀬綾さんから深川佐賀町下之橋の橋際を沽券図によって構成復元した「深川江戸資料館」があると教えて貰った。素直でない私は「江戸情緒を資料館でしか感得できない時代になったのか」と余計なことを一ノ瀬女史に言ってしまった。やはり行ってみる必要がある。
このこだわりも私たちの世代で消えていく。
二人の娘は東京で生まれ、東京で育って早くも”小母さん年齢”となった。時折、娘たちの一家と浅草に行くが、オヤジの江戸情緒を求める心は多分わからないのだろう。娘たちの目に映る浅草の絵は何か、聞いてみたいと思っている。
娘たちは上野駅に運ばれてくる地方の土の匂いよりも、東京駅のダイナミックな雑踏に東京を感得している。浅草よりも自由が丘や田園調布の世界を身近に思っている様だ。戦後の東京こそが娘たちの故郷なのだろう。
3LDKのコンクリート・ブロックで幼稚園・小学校時代を送った娘たちは、土の匂いに対する郷愁がさほど鋭敏でない。私自身が戦争で信州に疎開しなかったら土の匂いを知ることはなかった。その体験があったから、大都会のドブ・ネズミよりも田園の野ネズミの方がのびのびとして良いと言い切るのだが・・・。
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