玉田さんは、陸軍予科士官学校に籍を置いているときに終戦を迎える。陸軍予科士官学校というのは、陸軍士官学校と陸軍航空士官学校の予科を独立させたもので、今の大学の教養部にあたる。
玉田さんが、陸軍予科士官学校第六十一期甲生徒となったのは昭和十九年十一月一日、終戦の九カ月あまり前である。戦争の激化に伴い、六十一期の選抜合格者のうちの一部を急きょ繰り上げ入学させたものである。
甲生徒は、全員航空士官学校へ進む。その頃の戦局では、特攻隊の先頭に立たなければならない役目であったから、いずれ、死と直面しなければならない運命にあった。立派に死ねるか、ということを日々考えながらすごしたのだという。しかし、航空士官学校へ進学しないうちに終戦を迎える。
終戦時の陸・海軍の混乱は様々に書かれているが、玉田さんもその混乱に巻き込まれた一人である。
昭和二十年八月十四日、一部の陸軍将校は、皇居を占拠、天皇の終戦詔書録音盤奪取を図ろうとしたが、翌八月十五日鎮圧された。その後の八月二十四日、玉田さんが所属していた埼玉県寄居演習隊は、一少佐と一区隊長(中尉)に率いられて、NHK川口(埼玉県)の鳩ヶ谷放送所を占拠したのである。
「陸軍最後の抗闘-NHK川口放送所占拠事件」と言われるものである。そこから陸軍蹶起の呼びかけを行おうとして、失敗に終わった事件である。その時すでに、ポツダム宣言受諾の天皇の放送がなされ、陸海空軍が、無条件降伏を決定したあとであるから、抗命であり、反乱であった。
玉田さんは、ポツリ、ポツリとその時のことを話して下さった。
復員の準備をしていた八月廿三日の朝、区隊長が、夜間演習を行うという。ただの演習ではないことは、誰も感じていたが、皆それが何であるか見当がつかなかった。その夕方、東上線の新倉駅から北へ、六十数名は区隊長の後を行進した。荒川の土手を越えたところで、川口放送所を占拠し、陸軍全軍の蹶起を呼びかけることを知らされた。
「それで、玉田さんに、迷いはなかったのですが、成功すると信じたのですか」
愚問だったかもしれない。
「ついていくしかないと思ったのですよ」
生命を捨てる覚悟であったと言う。しかし、国の為に死ぬことを教育されてきたとしても、この占拠事件に参加した生徒達は一七、八歳、主導した少佐も中尉も二〇歳そこそこの若者である。生死の迷いは誰の心にもあっただろう。その後、事件に対する咎め立てはなく、全員復員した。
区隊長(中尉)だった人が、「私としましては、逆臣の汚名を被ることも、覚悟の上で決断した行為であり…」と後に書いていた言葉が心に残った。
藻の花ひらくうつし世に
潮の流れ渦をまく
名もなき道を行くなかれ
吾らが行く手星光る
玉田さんの青春は、まさに、「北の都に秋たけて」の七番の歌詞の‘潮の流れ渦をまく、うつし世’であったのだ。その後、玉田さんは府立高校に進学、もうひとつの青春が始まったわけである。府立高校では、生きることを教えられた。生きて、自分の思う道を歩めと。
しかし、玉田さんは、さりげなくこうも言われた。「陸士がえりという事で、肩身のせまい思いをしたこともあるのですよ」
時代は反転して、若者たちのあいだにも、微妙な気持ちの齟齬が生まれたのである。
「私は、死に場所をさがして陸士にいったのだ」という言葉にまわりもうたれて、その後、玉田さんの府立高校での学生生活は、日々、のびやかな雰囲気の中で、過ぎていったのである。玉田さんのうたう寮歌にしみじみとしたものを感じるのはそのせいであったかとこの頃思う。
玉田さんは、闊達で酒も強く、斗酒なお辞せずという感じだが、乱れることはめったにない。飲み方にも、遊び方にも余裕と風格がある。終戦の混沌をくぐり抜けた人の余裕といったものだろうか。
それとも‘名もなき道を行くなかれ‘を心していられるのか。名もなき道とは無名の道ということではない。‘名もなき道を行くなかれ’とは自分の心に恥じるような生き方をするなということである。これも今では死語に近い。(杜父魚文庫から再録)
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