アカシヤの雨にうたれて
このまま死んでしまいたい
夜が明ける 日がのぼる
朝の光のその中で
冷たくなったわたしを見つけて
あの人は
涙を流してくれるでしょうか
私の青春の唄であった。もち唄でもある。水木かおる作詞、藤原秀行作曲,西田佐知子唄。西田佐知子は、ほっそりとして清楚な容姿の都会的な雰囲気の歌手だった。少し鼻にかかった低い声と、なげやりな感じの平明な歌い方が新鮮だった。
「アカシヤの雨が止む時」が発表された昭和三十五(一九六十)年は、六十年安保闘争の年、六十年安保と「アカシヤの雨」とは、我々の世代の青春回顧の時に切り離せない。
この年の一月、岸内閣は日米安全保障条約改定条約と日米行政協定に代わる新協定「条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」を調印した。
条約にいう極東の範囲と日本のとるべき「行動」のあり方が議論を呼んだ。条約反対運動は、批准・承認に向かって激化していった。私の通っていた大学構内にも、「安保反対」の立て看板が並び、授業はたびたび休講となった。
安保反対の熱気の中で、日頃は政治に無関心な多くの学生もデモに参加した。この時、私は大学二年、十九才だった。二十歳になる前に何かをやりとげたいという気持ちが切実にあった。何か記念碑になるようなことを。毎日のように国会前にでかけていった。
闘争も終わりに近い六月十五日、右翼団体が主婦のデモ隊と新劇人の一団にトラックごと突入、多くの負傷者を出した。その夕方、デモ隊の国会突入で、警官隊との間に乱闘が繰り返され、東大生の樺美智子さんが死亡した。
そんな状況を心配した母は、私の男友達の一人をお目付け役につけた。彼はデモに行く私に付いてきた。デモには加わらず、歩道に上がって、車道に広がるデモを遠くから眺めていた。私と目線が合うと照れたように笑った。彼が私の監視役であることを後で知った。後年、私はその男のプロポーズをことわった。
六月十九日、条約は承認され、‘国家権力の背丈の高さ’という言葉を残して、安保闘争は終焉した。闘争が終われば高揚した気分も急速に冷めていった。何かをなし遂げたという充実感はなかった。西田佐知子の唄う「アカシヤの雨が止む時」が街に流れていた。その物憂い唄声はその時の倦怠の気分にぴたりとあった。
その後、何故か学校の授業には興味を失っていた。マージャンや旅行や飲み会で日々が過ぎていった。そして二十歳を迎えた。自分が何をしたいのかさっぱりわからなかった。
「二十歳なりし奢りも持てず黒髪を切りて決意も持たず」がその時の心境だった。
与謝野晶子の短歌「その娘二十歳肩にながるる黒髪の奢りの春の美しきかな」をもじった戯れ歌である。その年の秋も深まり六大学野球秋季リーグ戦の優勝争いは早稲田と慶応で争われることになった。毎日神宮球場に通った。異常な興奮につつまれた早慶六連戦は、早稲田の逆転優勝で終わった。怠惰な青春のつかのまの華だった。
大学を卒業してすぐに結婚をし、子供を育て、忙しい日常の中で、この唄を思い出す事もなく過ごした。たまに、テレビ番組の懐かしのメロディーの中で唄われているのを聞くくらいだった。野球選手や相撲の力士と浮名を流した西田佐知子も結婚して芸能界から引退し、テレビの画面から姿を消した。(杜父魚文庫から再録)
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2012 アカシアの雨が止む時 堀江朋子

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