2019 中東回想  志賀節

ユダヤ人の地、パレスチナ人の地
私は、中東を訪問したことがある。1963(昭和48)年10月のことだ。
時恰も第四次中東紛争のさなかだった。2000年ものあいだ流浪の民として祖国のなかったユダヤ人が、第二次世界大戦後、それまでパレスチナとよばれていた国の一地域に、国際的な取り決めによって、自国イスラエルの建設が認められたのだ。2000年来の夢が叶ってユダヤ人は喜びに沸いた。
イスラエルがユダヤ王国と寸分違わぬ所に建てられたとしても、2000年来地主だった人と、2000年以前に地主だった人のいずれが、土地所有権の正当性を認めてもらえるだろう。
2000年以前に地主だったユダヤ人は、勝手に土地所有権を手放したのではなく、無理矢理追い出されたと主張する。2000年間地主だったのに、それを無体にも追い出されたパレスチナ人には、憤懣やる方ないものがある。基本的にはこれが中東紛争の原因であり、第四次中東紛争もその例外ではなかった。
日本は島国であるため、よく指摘されるように、国外の動向には鈍感で、それが日本にどのような影響を及ぼすかなど、考えない傾向が強かった。
第四次中東紛争の起きた年の前年(1972年)末に初当選した私は、政治家として中東情勢を正確に把握して今後に処さなければならないと考えていた。折も折り、山崎拓代議士から中東行きの誘いがあった。
初当選仲間とは急速に親しくなったが、とりわけ私は山崎代議士に好意をもった。折目の正しさは日本語の使い方にもあらわれ、どこでどういう勉強をしたのか、語彙が豊富、その用法も適切であり、的確だった。
私は元来文学青年だったから、万巻の書を読破する気概に燃えた青年時代を送っており、読むにつけ書くにつけ、言葉というものには敏感だった。昨今、教養のある人ですら「時間がないので簡潔に御説明します」などと平気でいう。私の言語感覚では「簡潔」が「簡明」であってもかなわないのだ。
潔といわず明といわず、一種の丁寧語か尊敬語の響きがあって、「私はおっしゃっています」のような響きを感じてしまう。どうしても同趣旨のことをいいたいのなら「簡単」を用いるべきで、「単」には丁寧語、尊敬語の響きが全くないから「時間がないので簡単に御説明します」でおかしくない。合格だ。
こうした私の言語感覚にとっても違和感がないどころか、いろいろなことで山崎代議士とは真面目な話をしたり、時には冗談をいったり、ひやかし合ったりしても楽しかった。
中東は全くの処女地、未知の世界、好奇の的でもあり、一も二もなく誘いに乗った。山崎拓と私のほかのメンバーは加藤紘一、片岡清一、瓦力、団長として木部佳昭という顔ぶれだった。若い頃欧米に四年程いたことがあるとはいえ、それ以来初めて経験する外国だった。私の心は幼稚園児の遠足前夜さながらだった。
戒律に厳格なイスラムの人々
中東で初めて地上に降り立ち、空港を出たのがドバイだった。ドバイがそれまでの空港と隔絶した相違は、税関吏の私たちとの接し方だった。通例、日本の国会議員に対しては敬意を表し、手荷物などの中身を改めることはしない。持参の旅券が「公用」であるからだろう。ところがドバイでは違った。
手荷物のジッパ-を指差して、下手な英語で「開けろ」という。「オープン」を「オーペン」と発音する。開けると「ノーアルコール?」と聞く。酒類は持っていないな、という意味なのだろうと見当をつけて「ノー」と答える。
答えてから、アルコールがアラビア語だったことをふと思い出した。イスラム教が厳格なところほど飲酒が禁止されているのだ。ドバイでも酒の持ち込みが禁じられていた。
アラブ首長国連邦を経てサウジ・アラビアを訪れたのが、この旅行の白眉だった。首都ジェッダを訪れ、スークとよばれる市場を夜に訪れてみたり、そのかん千代田化工や石川島播磨の工場を見学したり、目先の変わった数々の経験をした。
特に異様な体験は、現地人イスラム教徒の祈祷時間のお付き合いだった。折しも断食月(ラマダン)に当たっており、イスラム教徒は宗教上の戒律に基づいて、明るいうちは飲食物を一切口にしない。厳格を重んじるイスラム教徒には、口中の唾液すら断食月には燕下しない者さえいるという。日没後、水を飲み、少量の食物を口にする程度なのだ。
このような人たちが私たちに付き添い、私の運転手をつとめてくれたのだが、言葉がまったく通じない上、朝、昼、晩の祈祷時間が来ると、砂漠の中であろうとなかろうと、所かまわず車を止め、車から降りて私たちそっちのけで、メッカに向かって立ったり、土下座したりしての祈祷を始めるのだった。
「風」に強いアラビア語
サウジアラビア第二の都市リヤドを訪れた時に、私は意外な経験をした。日本でいえばその役所は経済企画庁で、応接に出た人は長官に当たると、日本人外交官から説明された。「長官」を囲んで私たちはコの字型に陣取ったが、話の内容は戦闘中の第四次中東紛争と石油にまつわる問題についてだった。
その内容よりも私の注意を惹きつけたのは風だった。今日とは異なり、当時は窓枠の中に冷房器がはめ込まれていたものだが、サウジアラビアの「経済企画庁」の窓枠の中にも冷房器が取り付けられていた。冷房器の中の翼の回転にあわせるように、窓がガタガタと音を立てた。
冷房器からは風が吹き送られてきた。からだを後ろに倒し、椅子の背もたれに寄りかかると、冷房器の風が私の左頭部から左顔面にかけて、吹きつけてきた。前かかみになると、風はもう来なかった。からだを固定させていると疲れるので、背もたれに寄りかかったり、前かがみになったりを何回か繰り返ししたが、そのうち、私は妙なことを発見したのだった。
「長官」の言葉は、私の横っ面に風が吹くつけて、耳の中が風に吹かれて騒々しい時の方が鮮明に聞こえるのだ。「長官」の言葉の音声は風の吹きつけない時の方が聞こえやすい筈なのに、全く逆の現象が現実のこととして私に迫ってきたのだ。そうと気づいてからの私は、からだを前に倒したり、後ろに寄りかかったり、何度か位置を変えてみた。
しかし、何度やっても風の中での方が「長官」の言葉が鮮明に聞こえることに変わりなかった。日本人として最高のアラビア語の使い手といわれているアラビア石油の林昂常務取締役に通訳として同行頂いたのだが、この人のアラビア語は風の中では聞き取りにくく、風のない時は聞き取りやすい常識的なものだった。
アラビア語は元来砂塵渦巻く砂漠の中で、ラクダの背中に乗った者同士の意志伝達に用いられる言語だ。風の吹くような時に、聞き取ったり聞き取らせたりしなければならない言語だ。それゆえに、アラビア語は発音それ自体が他の言葉とは異なり、咽喉の奥からの発声こそ、独特なものなのだ。
この発声は生来の鍛錬によって身につけるもので、後天的な努力によって身につけたものは所詮借り物ということになるのではないか。それが生まれながらのアラビア人と、最高のアラビア語の使い手とはいっても成人後に努力して身につけた人との差なのではないか。(杜父魚文庫より再録)
杜父魚ブログの全記事・索引リスト(7月7日現在2022本)

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