「戦争は血を流す外交、外交は血を流さない戦争」
毛沢東の有名な言葉だ。簡潔な言葉で本質を突く。権謀術数の限りを尽くして中共帝国を創り上げた。
「外交とは棍棒片手に猫なで声で交渉すること」
これは日露戦争時の米国大統領、セオドア・ルーズベルトの言葉。「棍棒外交」で米国を強国に仕立て上げた。
外交は和戦両用で臨むというのが今でも国際的な常識である、日本を除けば。
明治維新をはさむ激動期に英国大使館で外交官を務めたアーネスト・サトウは、薩英戦争の現場にいた。こう記している(「一外交官の見た明治維新」)。
<(生麦事件に対する薩摩の)回答書を調査した結果、受理することのできない理由のあることが分かった。・・・わが方は(薩摩の)使者に向かって、回答は不満足なものと考えられるから、もはや一戦を交えた後でなければ日本人との交渉には断じて応じられぬと告げた>
そして英国軍が薩摩の汽船の拿捕を仕掛け、薩摩藩の「全砲台が我が艦隊に向かって火ぶたを切った・・・砲弾の下にさらされると異常な興奮を覚えるものだが、荒れ狂う天候がいっそう人々の落ち着きを取り乱させた」。
<交戦を開始してから45分ばかりして、旗艦が旗首を転じたのが見えた。次いでパール号が戦線から離脱してしまった。艦長と中佐が第7砲台から発射された球形弾にあたって戦死したためであった。・・・
ほとんど同時に10インチの破裂弾が艦の主甲板で炸裂したと見る間に、七名の水夫が戦死し、一名の士官が負傷した。こうして、十インチから十八ポンドの砲弾をもつ三十七の砲門の一斉射撃をあび、この堂々たる軍艦もすっかり窮地におちいってしまったのである>
鹿児島の町は灰燼に帰したから、この戦争は痛み分けで、お互いの実力が分かったから薩英は同盟し、倒幕へ協力していくことになる。
西郷南洲翁もこう語っている。
「正道を踏み、国をもって斃るるの精神なくば、外国交際(外交)は全かるべからず。彼の強大に萎縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従するときは、軽侮を招き、好親(友好)かえって破れ、ついに彼の制(支配)を受けるにいたらん」(「遺訓」)
これがごく普通の外交で、「開戦を辞さず」という覚悟がなければ外交はなかなか進まない。拉致問題がまったく進まないのは「戦」がないからである。
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」(憲法)
日本はどうせ「ヘタレ」の宦官、たかが竹光で、キャンキャン吠えているだけ、相手にする必要はない、と北朝鮮は思っているだろう。
しかし、拉致は犯罪であり、テロであって、「国際紛争」ではないから我が国は平壌を爆撃し、犯罪集団の朝鮮労働党を壊滅し、その頭目の金正日を捕縛し、北朝鮮全土を解放し、拉致被害者を奪還すべきである。
「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去し・・・国際社会において名誉ある地位を占め・・・全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認し・・・自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」(憲法)のであれば、自衛隊という「警察力」で北朝鮮を強制捜査するのが筋だろう。抵抗したら制圧しろ。
それができないのなら日本は永久に「ヘタレ」国家で、やがてはどこかの強国に呑み込まれるだけである。
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