2132 スターリンとシェワルナゼ 古沢襄

非情な独裁者・スターリンの氏・素性・生い立ちを調べたことがある。それが何と武力衝突しているグルジアのゴリで貧しい靴屋の息子として生まれていた。ゴリは今やロシア軍機の激しい空爆を受けている。
スターリンの母親は農奴。靴屋のオヤジは酒乱という家庭でスターリンは、近くのユダヤ人がスターリンを哀れみ、本などを与えて勉強させたという。酒乱の父親が家出した後、スターリンはゴリの教会学校からトリビシ神学校に進んでいた。
グルジアは四世紀に遡るキリスト教国。グルジア人が83・8%を占めているが、グルジア正教徒が75%、イスラム教徒は11%に過ぎない。スターリンはトリビシ神学校で優秀な生徒だったというから、社会主義運動に急傾斜することがなかったら、ソ連時代にも平凡な少数民族の敬虔なグルジア正教徒で生涯を終えていたかもしれない。
しかし、この時代にスターリンは社会主義運動へ積極的に参加、教師に反抗的な態度を示すようになって、トリビシ神学校を放校された。その行動は一直線で激しかった。やがて党中央からも認められるようになるが、白系ロシア人が主流であったソ連において、格下の少数民族・グルジア人というコンプレックスにつきまとわれている。
人一倍コンプレックスを強く感じるゆえ、スターリンは異常なまでの権力欲、顕示欲の塊であり、その目的を達するためには全く手段を選ばなかった。裏切り者を絶対に許さない不寛容さと、人間を殺すことをなんとも思わない冷酷な性格の持ち主であり、粛清した政敵の写真を見て悦に入りながら故郷のグルジアワインを愛飲していたという。(ウイキペデイア)
だとすればスターリンの性格は後天的なものなのかもしれない。クレムリンの権力者となった後に子供時代に面倒をみて貰った老ユダヤ人を呼んで歓待した逸話が残っている。
グルジア出身の政治家でシェワルナゼがいる。ランチフティ地区ママティ村の生まれである。1985年にゴルバチョフ書記長が誕生するとソ連共産党中央委員会政治局員に抜擢されたが、ゴルバチョフとはお互いに地方党員時代からの旧知の仲であった。
ゴルバチョフの新思考外交推進役としてソ連外相に就任、ゴルバチョフのペレストロイカでも片腕となった。ソ連崩壊後はグルジア共和国の大統領。シェワルナゼはドイツ人に人気がある。外相時代にドイツ統一に尽力した事が高く評価されていて「祖国統一の恩人」の一人ともいわれている。
今回のロシアとグルジアの武力衝突は、南オセチア自治州をめぐる両国の対立が原因となった。南オセチアはグルジアの自治州だが、事実上は独立状態でグルジア政府の権力は及んでいない。南オセチア共和国を自称し、グルジアからの分離、ロシア連邦への加入を主張している。
住民はロシア連邦の北オセチアとグルジアの南オセチア自治州に住むオセット人という山岳民族。両地方を合わせて60万人といわれている。独自のオセット語を使い、ソ連時代から独立志向が強かった。
スキタイ、サルマタイ、アラン人などの古代の黒海北岸一帯で活動したイラン系民族の後裔と考えられている。彼らは諸民族と混交を重ねていく中で、アス人と自称したオセット人の先祖がハザールの解体後、カフカス山脈北麓の低地地帯に王国を形成し、カフカス先住諸民族の強い影響を受けた独自の文化を発展させた。(ウイキペデイア)
グルジアのロシア離れ、欧米接近に危機感を持つロシアが、独立志向が強い南オセチア自治州に武力支援をして、これに危機感を持ったグルジアが南オセチア自治州に武力介入したという複雑な様相を示している。
これには原油高騰で潤ったロシアにおいて、強気で大ロシア主義に突き進むプーチン・ドクトリンがかいまみえる。白系ロシア人のプーチンをグルジア人のスターリンとシェワルナゼはどう見ているのだろうか。
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