「手練手管てれんてくだ」について『新明解』は「うまいことを言って人を丸め込む方法」とあり、いずれにせよ褒め言葉ではない。
手練手管 ほんに惚れたはぬしだけでおざりィす
廓の譬えに「素見(ひやかし)千人、客百人、間夫が十人、地色(いろ)一人」という言葉がある。
【吉原よしわら】江戸の遊郭。1617年、江戸市内各地に散在していた遊女屋を日本橋葭屋町(よしやまち)に集めたのに始まる。
明暦の大火に全焼し千束日本堤下三谷(さんや)現在の台東区千束に移し新吉原と称した。北里、北州、北郭などとも呼ばれた。売春防止法(1958年4月施行)により遊郭は廃止。
吉原にやってきて遊女を見てまわるだけの素見が1000人、そのうち客となるのは100人、馴染みとなって「私にとってはあなただけよ」などと言われてうつつを抜かす間夫(まぶ)が10人、しかし、遊女がほんに惚れている地色は1人だけという意味の言葉だ。現代でもこの譬えに身に覚えのある人は少なくはありますまい。
「傾城(けいせい)=遊女)のまことの恋は恋ならで金持ってこいが本当(ほん)のこいなり」というように、遊女はある意味で客にいかに金を遣わせるかが商売である。
たとえば遊女に対して見世から夕食は支給されないから、遊女は客をとり、その客に何らかの食事(台の物)を注文しもらわなければ食事にありつけないし、また、まともに男を相手にしていたのではとても身が持たない。
「女郎の誠と卵の四角はありえない」と言われるように、客には身を預けて「ぬしだけよ」と言いながらも、本心ここにあらずのその手練手管は、「年季(ねん)があけたら夫婦になる」なんて起請文(きしょうもん)を客ととりかわしておきながら、実はその相手が3人いたという『三枚起請』などの落語にもなっている。
起請文というのは、自分の名前のところに血判を押して神仏にかけて誓うもので、誓紙(牛王紙)を売り歩いた勧進比丘尼という人たちが「起請文を書くたびに熊野権現の烏が3羽死ぬ」と言いまわりました。
誓いを破ると、熊野権現の烏が血を吐いて死に、たちまち天罰が下ると言われたため、はじめ、その誓いは堅く守られたと言う。
起請文は戦国時代、武士同士の間でも盛んにやりとりされた。互いに裏切らないよう誓いを立てるのだが、そもそも親兄弟や主人と家来などが争う下克上の世の中だから、何度、書いたところで守られるわけがなく、次第に廃れていった。
これに対して遊女の起請文は、少なくとも江戸時代の終わりまで見られたが、戦国時代の先例のように、目的は相手を信用させるためだけ、つまり見せかけであることが少なくなかった。
文化14年(1817)に出版された洒落本『籬の花』にその例が出ている。遊女・梅川が客の八右衛門の前で自分の左薬指の爪の下に小刀を突き刺し、おもむろに血起請を書き始める。
文字を墨で書くときは、牛王紙に書かれた烏の目のところどころに血を塗りつけ、「起請文の事」という題に続いて、誓いの文言を書き記し、最後にさまざまな神の名を記し、「もし背かば御ばつをこうむらん」という文章で締めくくる。
梅川はこのとき「御ばつうをこうむらん」とした(平仮名の「う」と「ら」はよく似ている)。「御ばつう」は言葉ではないので、誓いを破ったところで罪は被らない、つまり一言「う」の文字を入れるだけで、本物の起請が嘘の起請になるってわけだ。
そうとは知らない八右衛門、梅川が誠を誓ったと思い込み、紋日(料金が通常の倍になる)にまたくることと、梅川から頼まれた15両の金をも明日持ってくることを約束。梅川は「必ず見捨てておくんなんすなよ」と言って帰る八右衛門を見送る。
この八右衛門といい、「ほんに惚れているのはぬしだけ。年季があけたら一緒になろうよ」と起請文をしたためたのを本気にした『三枚起請』の男たちといい、真に受けた男のほうがなんぼか純情かもしれない。
だが、それはまあ言ってみればタヌキとキツネの化かしあいみたいなものでもある。「他客(ひと)は客、俺は間夫だと思う客」なんていう川柳もあり、冷ややかな客もおった。
閨(ねや)の中でもさまざまな手練手管が使われる。わざとゆっくり手紙を書いたり、ちょっと手水(ちょうず=手洗い)へと座敷を出ていって他の客のところへ行ったり、たらふく酒を飲ませて酔い潰し、なかなか床入りしようとしないのは日常茶飯事。
床入りしても長時間にわたって男とくんずほぐれつしていたのでは身が持たないから、適度にあそこをきゅっきゅと締めて、男をさっさと昇天させ、一丁上がりとすぐに寝込んでしまったり。
あるいは逆に「もっとしましょうよ」と秘術を尽くし、何度も男を奮い立たせるなんてこともすれば、男の腰遣いに合わせて激しく腰を動かしたりもした。
何度もおいたをするのは矛盾しているように思うかもしないが、男ってのは単純なものであって、もてないよりはもてたほうがいいに決まってる。
また、たとえば武士の奥方の場合(だけに限らないが)、喘ぎ声をあげるのは恥だとする風潮があり、その間は硬直しっぱなしのマグロも珍しくない。
一方、秘術を尽す遊女はそれはそれで面白いものだから、こうされるとその後もせっせとこの遊女に通い詰めることになるわけで、とくにやりたい盛りのむすこ(息子株)に対してこの手管がよく使われたようだ。
むすこというのは、たとえば商家のまだ店を持たせてもらえない男であって、金はある、時間もあるという、吉原の上得意客の一人である。
男を騙すのが手練なら、もてなすのも手管。そんな遊女の手練手管の数々が姉女郎から妹女郎へと伝えられていった。
三十年前、アメリカとの外交交渉の席で園田直外務大臣のことをヴァンス国務長官が盛んに「テレンテクダ」の人と持ち上げた。わが方の通訳氏、この日本語を知らぬ「お坊ちゃん」で、話が混乱した。良き思い出である。
名奉行として名高い根岸鎮衛が著した『耳嚢』(1781~1818)という諸事の記録集に、騙しの話が載っている。
http://www.din.or.jp/~sigma/yosiwara/teren.html
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2164 手練手管は吉原術 渡部亮次郎
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