2174 政治記者は永遠のアウトサイダー 古沢襄

政治記者というのは厄介な職業である。「皆で渡れば怖くない」調で同業他社とツルんで応接間取材する分には”特オチ”はないが、”特ダネ”は掴めない。抜け駆け功名を立てるために一対一の単独取材が必要になる。
他社が応接間でたむろしている時に秘かに台所口から入り、奥の茶の間で政治家夫人とお茶を飲んで目指す相手の帰宅を待つ。お手伝いさんの機嫌をとっておくために、時には洒落たハンカチやパンテイストッキングのお土産を秘かに握らせたりする。
そこで政治家の口から特ダネらしきものを掴むのだが、必ずといって良い様に「書かないでくれ」とオフレコをかまされる。一対一の単独取材だったから、記事にした途端に”出入り禁止”を喰らってしまう。
特ダネ記者という人種は、この苦労の道を通って政治家に食い込んだものである。私たちは先輩の政治記者たちから「一人前の派閥記者になるには十年はかかる」と脅されたものである。
昭和三十年代に岸内閣が出来た頃、”岸派の三羽烏”といわれた派閥記者がいた。毎日新聞の安倍晋太郎、共同通信の清水二三夫、日経新聞の大日向一郎の三氏。岸首相は閑があると東雲の河川敷ゴルフ場に行ったが、ゴルフからあがってくると、いつも岸首相、中村長芳秘書官と清水氏の三人連れ。
こうなると政治記者というより秘書ではないかと私などは思ったものである。事実、清水氏はしばらくして共同を退社して、山口県の防長新聞の専務になった。防長新聞のオーナーは女優の有馬稲子さんのご主人、岸側近の財界人だった。
ところが防長新聞の経営をめぐって清水氏はオーナー氏と大喧嘩のあげく、さっさと退社して東京に戻ってきてしまった。清水氏と親しかった私は東京のホテルのバアで退社のいきさつを聞かされた。岸さんは烈火のごとく怒って清水氏を破門したそうである。
「政治記者として誰よりも岸に食い込んだと自負していたが、結局は政治記者とか政治評論家というのは永遠のアウトサイダーだな。岸の家の子郎党になって、それを知ったよ」と破門となった割には、意外とサバサバしている。
何のことはない。破門は形式上のことで清水氏は福田赳夫氏と安倍晋太郎氏の事務所にデスクを貰っていた。相変わらず政界を遊弋しながら、今度は私が清水氏からオフレコをかまされて政界情報を貰うことになった。
もともと文筆で身を立てるつもりでいた私だからオフレコ情報を記事にして特ダネにするつもりはない。もっとも文筆で身を立てる夢はかなわず、定年まで共同にいて、おまけに役員にまでなったのだから世の中のことは分からない。
清水氏が亡くなって葬儀にでたら、岸さんの長女で安倍晋太郎氏の洋子夫人が来賓席に座っていた。晋太郎氏もすでに亡く、”岸派の三羽烏”は大日向氏が一人だけとなった。佐藤首相の秘書官だった楠田実氏の姿もあった。
葬儀の帰り道で大日向氏に「政治記者は永遠のアウトサイダー」と清水氏が言っていた話をしたら「清水君らしいな」と笑った。その大日向氏も亡くなった。
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