2194 佐藤千夜子色気なし 渡部亮次郎

佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月13日―1968年(昭和43年)12月13日)は日本初のレコード歌手。
1946年(昭和21年)、千葉の教師から大金を詐取して逮捕。
1952年(昭和27年)、古着屋からかつて自分の所有品だったコートを無断で持ち帰ろうとして新聞沙汰となり、事実上芸能界から引退。
本名は佐藤千代。山形県天童市出身。華々しくかつ浮き沈み激しい人生は、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」のモデルとなった。
日本初のレコード歌手だったから、初めは各方面で「もてた」。後に歌謡界の大御所となる古賀政男も「酒は涙か溜息か」が名曲となったのも千夜子に最初に歌ってもらったからだった。
しかし、とにかく色気が無い。女性らしい、ふくよかさゼロ。温かみも皆無。ただただ高い声で叫んでいるだけだ。ソプラノかも知れないが、当時の日本男性、歌手が女性でありさえすれば夢中になったとは情けない。
子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、伝道師のミス・キルバン(Miss.Kirwan)と出会う。天童小学校高等科卒業後、その歌の才能を見抜いたキルバンに連れられて上京。
ミッション系である普連土女学校(現普連土学園)に入学。在学中にオペラを鑑賞し強い感銘を受け、音楽を志す。
1920年(大正9年)、東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学。在学中に作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情らと知り合う。中山、野口と共に「全国歌の旅」に出る。
1925年(大正14年)、ラジオ放送(NHK)が開始され、ラジオを通して歌うようになり「青い芒(すすき)」でレコードデビュー。発売元は内外蓄音器(後の太平蓄音器)。
1928年(昭和3年)、中山、野口らと共に行っていた「新民謡・新童話コンサート」から生まれた「波浮の港」を日本ビクターよりリリース。これが日本初の商業レコードとされている。
「波浮の港」は10万枚の大ヒットとなる。同年に「当世銀座節」をリリースしヒットする。また古賀政男の「影を慕いて」を歌う。これにより、古賀はメジャーデビューのきっかけを掴む。
1929年(昭和4年)、「東京行進曲」を5月1日にリリース。菊池寛原作の同名小説を映画化した作品(主演夏川静江、入江たか子)の主題歌に用いられ、日本初のタイアップ曲。25万枚以上を売り上げ特大ヒットとなった。
また、全国区のスターとなると共に、自身最大のヒット曲となる。この曲は「歌謡曲」というジャンルを確立した曲でもある。「東京行進曲」のB面曲だった「紅屋の娘」も一世を風靡した。
同年、「愛して頂戴」「黒ゆりの花」をリリースしこれらもヒットを記録。
1930年(昭和5年)、「唐人お吉の歌(黒船篇)」、「この太陽」をリリース。次々とヒットを飛ばす。同年にイタリアに渡る。理由については、中山との不倫問題を決着させるため、当初から志望していたオペラ歌手になるためなどの説がある。
現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力する。しかし、アメリカに残る伝説では日本を出発した船中で日本人の柔道家と恋仲になり、イタリアへ渡る前、爛れた生活を送った。
1934年(昭和9年)、功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与されるもののオペラで名声を得ることはできなかった。
同年に帰国し、日本国内での復帰を目指すが、若手の台頭などもあり果たせず終わる。彼女の時代は終わっていた。
戦時中は南方戦線の慰問をして回る。山本五十六に前線で兵士が愛唱していた「夜戦部隊の歌」を内地に持ち帰って欲しいと依願されたこともあった。
癌は乳癌に始まり、嘗てアメリカで馴染んだ男性の縁者が東京に呼び出されて面会すると、乳癌の悪臭で息が詰まったと言う。
1968年(昭和43年)12月13日、ガンのため都立大久保病院で死去。享年71。生涯独身で家族はいなかった。地元天童市の共同墓地に埋葬されている。同市の佐藤千夜子記念館は佐藤の生家を再現したものである。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「東京行進曲」は当時としては天文学的なセールスを記録し、大震災で消滅していた銀座の柳がこの曲の「昔恋しい銀座の柳」の歌詞から復活したという経緯もある位であった。
この「東京行進曲」の4番は元々、「長い髪してマルクス・ボーイ、今日も抱える赤い恋」という歌詞だったが、「シネマ見ましょか、お茶飲みましょか、いっそ小田急で逃げましょか」という歌詞に改められた。
作詞家の西条八十は後に、この歌が縁になって小田急の顧問に迎えられている。また「愛して頂戴」の作曲者は松竹蒲田音楽部となっているが、実際は中山晋平が、あまりに低俗な歌のため作曲者として実名を出すのを憚ったという話がある。
飛ぶ鳥落とす勢いであった千夜子だが、当時は流行歌手の地位は低く、本来、クラシックを目指していた事情もあり、「東京行進曲」の印税で人気絶頂の4年にイタリアへオペラの勉強のため留学。
しかしこれが千夜子の命取りになった。5年間のブランクは、もはやレコード界に千夜子の席を用意していなかった。ミラノでも日本民謡などは評価されたが、肝腎の西洋ものは全く評価されず、派手な生活もあって領事に金の無心をするなど滅茶苦茶な生活を送っていた。
9年の日本への帰国船では、ローマで交友があったテニス日本代表選手が先に帰国途中の船からインド洋に身投げをした事から、その場所を通りかかった際に洋上に花束を投げて故人の好きだった「上州小唄」を歌い、大変な話題になった。
しかし肝腎な歌の方では鳴かず飛ばず。これ以降の千夜子は歌と関係のない話題で世間を騒がせ続ける事になる。
しばらくは二流の劇場でアリアなどを歌っていたが、10年にはミラノ領事に借りた金を返さなかった事から、領事の遺族に訴えられ、新聞沙汰になる。
戦時中は南方戦線の慰問などをしてまわり、18年には山本五十六に前線で兵士が愛唱している「夜戦部隊の歌」を内地に持ち帰って欲しいと頼まれたりもしている。
その後は地方巡業などで生計を立てるが、26年には銀座のビル内でたまたま強盗に遭遇し縛り上げられ、この事件は当時の新聞などで大変な話題となった。
ガンとなり、外人家庭のメイドなどをして暮らし、晩年はその日の生活費を無心して歩くほどの困窮を極めた。
死の直前までリサイタルを開く事を夢見て、入院先の病院でも担当医師に「東京行進曲ってご存知?」と問うて、世代的に千夜子の名声を知るべくもない壮年のその医師が東京音頭と勘違いして答えると、大変に不機嫌な態度をとったり、最後の最後まで往年の名声を忘れられずに生きた不幸な人だった。
派手な生活も改める事を出来ず、43年8月に医療保護患者として都立大久保病院に入院、11月に知人が見舞いに訪れた際にも「モンテカルロでバクチで儲けた」などとかつての栄光の日々の思い出話ばかりをしていたという。
生涯独身で家族はいない。天童教会の共同墓地に眠る。訃報は新聞の東京版のみの掲載となり、その死を知ったのは都内在住者など一部に限られた。
その数奇な運命はNHKの朝ドラ「いちばん星」のモデルとなった。故郷の天童には佐藤千夜子記念館がある。
「誰か昭和を思わざる」。
http://www.geocities.jp/showahistory/music/singer04.html
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