「日暮硯」(ひぐらしすずり)という江戸時代の書物がある。書写によりずいぶんと出回っていたようであるが、誰が書いたのかは不明だ。
笠谷和比古校注の本によれば、江戸中期、信州松代藩十万石真田家の家老、恩田木工(おんだもく、忌み名・民親)の財政再建の事績を記したものである。
読み始めたらなかなか面白かった。小生もとより学者にあらず、正確性は心もとないが、浅学菲才を省みず現代語に訳してみる。誤訳は平にご寛恕を願い奉り候。
●名君あれば良臣おのずからあり
古語に曰く「名君あれば良臣おのずからあり」と。誠に至言である。
ここに信州川中島、松代藩のご城主、真田公(第六代藩主、真田幸弘)の幼い頃から現在に至るまで、ご政務のありさまを伝え聞くに、まことに賢君、名将であられる。
あるときお側衆が真田公に「お慰みに鳥を飼ってはいかがですか」と申し上げた。真田公は「飼鳥はおもしろいか」と問えば、臣下は「お慰みにもなりますし、鳴き声は朝の目覚ましにもいいでしょう」。
「それならば飼ってみよう、よしなに取り計らえ」
「ははー、かしこまりました」
さっそく大工仕事を管理する作事奉行に鳥籠を作らせた。高さ2.1メートル、幅2.7メートル、奥行き1.8メートル、漆塗りで装飾金具付きという大層立派なものができあがった。
真田公の居間の近くに置くと、真田公は飼鳥を勧めた臣下を「鳥籠ができた、見に来よ」と召しだした。
臣「結構なできばえです」
公「その方も気に入ったか」
臣「これ以上の鳥籠はないでしょう。江戸でも将軍様といえどもこれ以上のものはないと思います」
公「その方が気に入ればそれだけで満足である」
臣「それではさっそく鳥を調達してまいりましょう」
公「いや、急ぐには及ばない。まずは祝いの献立をそちの好きなように作れ」
臣「その面につきましては私は不調法ですのでご容赦を」
公「どのようなものでも苦しゅうない。そちが心からいいと思う献立を作れ」
臣「ははー、かしこまりました」料理人とあれこれ相談して献立をお見せする。
公「よくできた。そちもこれにて満足か」
臣「不調法で、これ以外には考えられませんでした」
公「その方の心にさえ叶えば我も満足である」
真田公は料理人に、この献立で明日の昼飯に2人前を用意するようにお命じになった。
翌日、料理が整うと、件の臣下を召しだし、「あの鳥籠の中に入って様子を見よ」。
臣下は籠に入った。
公「どうだ、よくできているであろう」
臣「なるほど、よくできたものでございます」
公「その中でたばこを吸ってみよ」
お側衆が籠の中に煙草盆を入れる。
公「たばこを吸いながら、その中で話をせよ」
そして料理の膳を自分の前と籠の中に置かせ、
公「その中で食べてみよ。その方が望みの料理なれば、さぞ旨からん。我もこれにて相伴すべし」
臣「それはどうぞご勘弁ください」
公「余の慰みである。食べてみよ」
殿のたっての仰せに是非もなく、籠のなかで食べる。
公は「なんなりと好きなものをお代わりせよ、たくさん食べよ」と強制し、お菓子、濃茶、薄茶などまでお振る舞いになる。
食事も済み、四方山話をし、二時(4時間)ばかりを籠の中で過ごしたが、真田公から「出よ」のお言葉がない。こらえかねて「出してください」とお願いすると、
「いや、出すことはならぬ。その中で一生を過ごせ。なんなりと望み次第に取り寄せて食わせるから、そのように諦めよ」。
臣下は苦痛が高じて盛んに嘆願するが、「なんでも奉公である。嘆願には及ばぬ」と許さない。臣下は涙を流し、お側衆にも嘆願し、幾重にも謝りますと申し上げ、お側衆もあれこれお願いすると、公は「その方、苦しかろう」とお尋ねになる。臣下は「ことのほか苦しく、ぜひともお出しください」と懇願する。
「苦しかば出よ。その方を苦しめて慰みにするつもりはない。ここへ参れ。申し聞かせることがある。次の間の者もここへ参れ。よく聞け。
その方もよく了見してみよ。その方が屋敷にて平生生活するところは、せいぜいが八畳か十畳であろう。その居間より見れば籠の内は少々狭いが、三畳ならそれほど狭いとは言えまい。
外で仕事をすることもなく。大小便の時には外へ出てよいし、山海の珍味を望み次第食わせ、難儀なことは何もないはずなのに、『出ることならず』と言えば苦しがり、涙を流し、詫び言を言う。
いわんや鳥類は天地の間を住まいとし、空を自在にかけめぐり、心のままに食物を求めるものである。狭き籠の内に入れられ、こちらはいろいろ心を尽くし、食物をくれても、鳥の心に叶うだろうか。
鳥の苦痛は、その方の難儀の何百倍だろう。鳥だからといって、それを苦しめて、自分の慰めになるはずもない。よくよく合点し、慎むべきである。
しかしながら、これを聞いてその方が面目を無くして残念と思うだろうが、そうではない。その方は忠義者で、平生よく奉公しており、なにも悪いところはないが、ふと感違いをして我に飼鳥を勧めただけだ。
世間の人は上下となく飼鳥しているが、それが悪いことだと気が付かないのはもっともである。初めにこれを申し聞かせても、その方は納得しただろうが、それではその方の忠義が表に出ないし、我の楽しみにもならぬ。
人の心は変わるもので、明日の心は分からない。また飼鳥を勧められたらその気になるやも知れぬ。その方を籠の内に入れ、ものを食わせて苦しめたからには、二度と飼鳥を勧めるものはいまい。
我も飼鳥したき心になったとしても、その方への手前、飼うことはできない。これに限らず万事気をつけて嗜まなければならず、これからの我が身の慎みにおいて、諫言よりも百倍、千倍の厳しい戒めになった。殊の外の忠義であり、広大な奉公である。
上の好むところ、下必ず随(したが)うというが、我ひとり飼鳥を好めば領分十万石の人々も飼鳥を好むだろう。これは大きな悪事だ。その方が籠の内にてものを食うという奉公をしたことで、領分の人々は飼鳥を止めるだろう。
これは大いなる善である。さらに、悪事と知れば我に勧めるものもいまい。もしまた我に悪事があれば(飼鳥でさえ思いとどまったのだからと)諫言してくれる人も多くなるだろう。
その方一人にて大勢の人に善を勧める師範となれば大いに善きことである。面目を無くして残念などとは思ってはいけない。変わらずに奉公せよ。心外なることは微塵もない。
我らへの忠義、諸人に善事を勧める指南であり、この上なき大功、当家繁盛の基である。これ皆、その方一人の働きなり」
これによって臣下は十両の褒美金を拝領した。面目も立ち、さらに恩賞もいただき、ありがたき幸せである。御政務における大慈大悲のご仁徳は言うまでもない。
以上は真田公が15歳におなりになった時のことである。生まれながらにして正しいことをして、自然にものごとを成就していく「生知安行」の才徳を備えた聖君、前代未聞の名将である。そうであるからして後に恩田木工を起用なさったのも道理である。(つづく)
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