恩田木工殿は「遊びなら博打をしても咎めない」と領民に言っていたが、博打を商売にしている輩は「これは旗の揚げ時」と見て、あちこちで盛んに賭場を開き、繁盛した。このために身代をつぶすものが急増したので、
「遊びの博打に負けて難儀しているものは、助けるから遠慮なく直訴すべし」と領内にお触れを出した。
●商売としての博打はご法度
あちこちから難儀したものが救済を求めてきたが、吟味の上、「誰が相手であるか」と問えば、元来がお上が博打を認めているのだから少しも誤魔化すことなく陳述する。木工殿は、その博打の勝ち組を召還し、「何月何日までに勝ち金きっと返済すべし」と申し渡した。
勝ち組は到底納得できない。皆々「迷惑至極です、到底受け入れられません」と反論すると、木工殿はこう諭す。
「と、いうことはその方どもは博打を商売にしたのではないか。先だっても言い渡したように、商売としての博打は天下のご法度である、これにそむけば厳しく罰する、と。その方どもも遊びで博打をしたのだろう、違うか」
一同「そういうことです、遊びです」
木工「商売でなく遊びなら、たかが遊びで人の身代をつぶすようなことがあっていい訳はない。よって勝ち組は必ず返済すべきである。もし遅滞したらきっと罰する」
勝ち組一同は「かしこまりました」となり、負け組みは一文の損もなかったが、勝ったほうは既に金を使ってしまった分が不足になり、借金して返済する羽目になったから、以後は博打はおろか小さな賭け事もなくなったとか。
以上の話は、木工殿の帰依している僧侶から直接聞いた話である。感激したので、日暮硯に向かって聞き覚えたことをメモ書きして伝えるものである。
上記書写人:馬場正方
ご領内は宝暦八(1758)年より年貢は月割になり、4月から11月まで、山間部は毎月8日と25日、平野部は5日と20日となり、お百姓は喜んだと言う。(おわり)
(平井注:恩田木工の改革は次世代から花開く。彼は改革のレールを命を削って敷いたのである。生年享保2(1717)年、40歳のときに財政再建担当家老に抜擢され、5年の任期を終えた翌年、46歳で亡くなった。
いかにストレスの大きな仕事であったことか。自らを厳しく律し、領民を含めた周囲には寛大な人であった。現代の日本の政治の悲劇は恩田木工のような命懸けの為政者がいないことではないか)。(完)
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2307 「日暮硯」松代藩の財政再建(13) 翻訳:平井修一
平井修一
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