人は死んでも足跡が残るものである。それは至極当たり前のことだが、知らないうちに或る人の足跡を追っていたとなると当たり前ではなくなる。偶然というより運命的なものを感じてしまう。
檀一雄という作家のことである。六〇年安保の頃、新宿のバアで檀一雄をよく見かけた。画壇の鬼才といわれた林倭衛の長女・聖子さんがママ。風紋という名のバアで今でもある。場所は三度変わったが、最初の店によく現れていた。
二番目の店はすぐ近くで、改装して新しくなったが、この店では檀一雄を見かけなくなった。明るい照明を嫌ったのかもしれない。最初の店は少し薄暗い、タバコの煙がもうもうとしている感じであった。その隅で黙然としてグラスを傾けていた。
そんな話を武田麟太郎の次男・頴介氏に話したことがある。頴介氏は河出書房の編集者時代に檀一雄のところに通ったそうである。「ちっちゃな娘がいてね、チョロチョロしていた」と笑った。そのちっちゃな娘が檀ふみさん、頴介氏よりも背が高くなっている。
私も頴介氏も人民文庫の作家の二世。日本浪漫派作家の檀一雄にはあまり関心がない。「原稿取りに行くのだから、檀作品は少しは読んだのかい」と頴介氏に聞いたら「サッパリ」と言う。
姿、形ちが父親の武田麟太郎そっくりの頴介氏だった。兄貴の文章氏は母親似、少し神経質な秀才型だが、弟の頴介氏は勉強嫌いの普通の男の子だった。二人とも私より若いのにすでにこの世にない。
五〇歳の頃、博多に赴任した。博多湾の能古島が檀一雄の終焉の地であった。新宿の風紋で見かけた檀一雄のことを思い出して行ってみた。何かの雑誌で愛人と去った父親を檀ふみさんは許さないと書いてあった。「ちっちゃな娘がいてね」と言った頴介氏のことを思いだした。
頴介氏は私のことを「お兄ちゃん」と呼んでくれる。秀才型の文章氏は苦手。私も勉強嫌いの普通の男の子だったからウマが合う。河出書房がつぶれたので頴介氏は毎日新聞社の出版局に入っていた。
「能古島に行ってみたよ」と言ったが「そう・・・」と頴介氏は素っ気ない。檀一雄の原稿取りに行く必要がなくなったからだろう。そうなるとへそ曲がりの私は、檀一雄の作品を読む気になった。
昭和五〇年、檀一雄は手遅れの肺ガンで九大病院に入院したが、手術は不可能の身体だった。余命は年内と言われ、遺作となった「火宅の人」を病床の口述筆記で完成させてこの世を去った。壮絶な死であった。
六十五歳になった頃、父と母の文学碑を岩手県沢内村の菩提寺・玉泉寺に建立する話が持ち上がった。玉泉寺の全英和尚とは無二の親友となるのだが、ある日のこと「檀一雄先生のことを知っているか」と聞かれた。
「新宿の酒場で見たことはあるが・・・」と言ったら「それがよ、この寺にきて泊まっていったんだよ」。そして大切そうに表装した二流の掛け軸を持ってきた。
「白髪の鬢眉に 混じれば 霜も花」と「筧にたぎる 瀧津の瀬に問はむ 我想う人 有りや無しやと」の二つ。「玉泉寺に参る」の添え書きと檀一雄の署名がある。日付がないが、昭和四十三年に、きだみのるが玉泉寺にふらりと現れて長逗留した前後のことだと全英和尚は覚えていた。
このことを書いて、しばらくしたら、檀ふみさんが突然、お忍びで玉泉寺を訪れ、二つの掛け軸を見て帰っていったという。「背の高い美人でごわした」が全英和尚の弁。
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2363 檀一雄の足跡・・・ 古沢襄

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