明の十三陵(みんのじゅうさんりょう)は、中国の北京昌平区天寿山にある明代の皇帝、后妃の陵墓群である。成祖永楽帝以後の皇帝13代の皇帝の陵墓があるため、この通称がある。
このうち定陵は発掘され内部は地下宮殿として公開されている。ここを日本人として初めて見学したのは田中角栄総理である。中国との国交再開に出かけた昭和47(1972)年9月末のことである。同行記者だった私も後を追っかけて見学した。
流石のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも殆ど、情報がない。
文化大革命(1966年―1977)中に発見された。北京郊外の小高い山を散策していた男性が道で石にけ躓いた。何の石か見たら、何か字が彫られている。
「俺は明日、殺される。このたび皇帝が逝去され、明日、ここに葬られる。同時に陵墓造営に一生携わった我々は皆殺しされる。陵墓の構造を知っていて、盗掘の方法を知っているからである」
「だが、悔しい。なんで墓作りに一生を奉げた末に、殺されなければいけないのか。悔しい。だからここに陵墓への入り方を刻んでおく」と刻んであり、正確に入り方と距離を指示してあったそうだ。
共産党政府は指示に基づいて発掘した。地下4階ぐらいの深さに墓があった。石室の入り口の扉は半開きにされていたが、盗掘はされてなかった。副葬品は地上の会館に展示されていたが、私の目をひいたのは2点。
それは玉の飾り物と金むくの金盥だった。これは厚さ2センチはあった。皇帝はこれに湯を注いで顔を洗い、庶民は一生、皇帝の陵墓建造に携わった末、皇帝薨去と共に殺される。一時に2万人という記録があるそうだ。こんな国があってよいものか。毛沢東の共産革命の動機が分ったような気がした。
通訳の小母さんに聞いたところでは、明の時代、帝王は甦ると信じられていた。キリストと同じだ。但し、甦る際に帝王[皇帝]は厖大な金銀財宝を娑婆への土産として携えて来なくてはいけない。
だから初めに死ぬときに厖大な金銀財宝が副葬品として埋葬されるわけだが、当然、それを盗む(盗掘)ものがあるから、陵墓の構造は秘密にされなければならないわけだ。
皇帝の跡継ぎが生まれた日から彼の陵墓の建造に村民は動員され、その死とともに皆殺しにされる意味はここにあったわけだ。
この思想は日本にも伝わったのか、天皇陵の盗掘も行われた。その事が明らかになる事の是非があるから、日本では天皇陵の発掘が宮内庁から簡単には許可が出ない、と聞いた事がある。
いずれ中国では皇帝のために庶民は死ぬという哲学。金持ちは飯を食い、貧乏人は餓死するのが当然という社会。そうではいけない、固いメシを粥に展ばしてみんなが等分に生きる社会を築こう、という毛沢東の思想が人口に膾炙した理由が、金の金盥を見て、なんとなく理解できた。
しかし、薄い粥をみんなで啜っているうちは近代国家には何時までも成長できないという考えを持っていたのが実は周恩来とトウ(!))小平。特にトウは毛沢東に睨まれながらも構想を滾らせていた。
それが毛の死とともに一気に「4つの現代化」の手段として開花したのが経済の改革開放化だったわけだが、あまりの急速な資本主義化の結果、様々な矛盾が表面化している。
資本主義を経験したことの無い現在の共産党幹部にとっては、化学工場が稼動すれば有毒な廃液や空気が排出し空気や飲料水を汚染するという単純な理すら分らなかった。
金儲け主義が野放図に進めば官僚の収賄が無限に行われ、肉まんに段ボールを詰めて売る奴や毒を薬だといって売る奴が出るという事も予想できなかった。
だから、そういう奴が出たときにどうすれば国際世論を納得させる方法があるのか、予め考えてもいなかった。仕方ないから中間管理職を死刑にすれば許してもらえると見た。だが駄目だった。メイファーズ。
石油や原子力などエネルギーの代替物は存在するが、飲み水の代替物は無い。飲み水を握った民族が世界を支配するという事をわかっていない。
おそらくそれを分かっても今の中国の様々な汚染を一挙に止められるのは胡錦濤といえども不可能である。あな、恐ろしや。
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