解散時期を巡る攻防は大詰めだが、次期総選挙に出馬せず引退表明をした自民党の実力者が何人かいる。小泉純一郎、河野洋平、中山成彬各氏らだ。
小泉氏の突然の引退表明は、さすが「サプライズ」を得意とするこの人らしいところだが、首相退任の時点で「議員も辞めるのではないか」という観測も出たことを考えると、まあ納得できる。米国のシンクタンクにいた次男を呼び寄せて秘書としていたことからも、早晩、跡目を譲るのではないかと見られてはいた。
改革を旗印にした首相経験者が世襲を認めるのか、といった批判もあるが、当人が祖父以来の3世議員なのだから、そうした情緒的反応はあまり意味がない。「政治家でなくても政治活動はできる」という弁も中曽根康弘元首相の例に見られるように、うなずけないわけでもない。
次期総選挙では「郵政解散・総選挙」で当選した「小泉チルドレン」83人のうち、自民党の極秘調査によれば、当選ラインに達しているのは3人程度という情報もある。いまだ選挙区が決まっていない人もいる。小泉氏の心境を考えれば、チルドレン惨敗という事態を議員として目撃したくないといったあたりにあるのではないか。
河野氏は「自民党総裁で唯一、首相になれなかった人」である。この人も評価が大きく分かれるのだが、慰安婦問題での「河野談話」は禍根を残した。
どう調査しても、国や軍による「強制連行」の事実は出てこなかったのだが、いきり立つ韓国などをなだめる方便として「強制性があった」ことにしておこう、という政治判断が優先されてしまった。この問題は別に言及する機会もあると思うので、今は深く立ち入らない。
あえて取り上げたいのは中山氏が引退に追い込まれたことである。硬派の論客として定評のあったベテラン議員だけに、閣僚辞任に加えて政界引退にまで至ってしまったことは、残念無念といわなくてはならない。
☆“失言3点セット”は別々のインタビュー発言の寄せ集め
この事態を招いたのは、いうまでもないが、メディアのインタビューでの発言である。「成田は“ごね得”」「日本は単一民族」「日教組は解体すべき」の3点セットだ。
定番の新閣僚インタビューで飛び出したのだが、その経緯に不明朗なものが残る。インタビューというのは、公式の記者会見だと堅苦しい内容になってしまうから、ざっくばらんにあれこれ語ってもらおうという趣旨であった。
多数の社がいるから、1社ずつというわけにはいかない。そこで、三つのグループに分けて、3回、行った。それぞれで出た発言を各社が持ち寄って、つき合わせた。その結果、どうもおかしなことを言っているということになり、これが「失言報道」となった。
政治の世界では「代表取材」が日常的に行われてきた。例えば「ハコ乗り」という手法がある。内閣や党の枢要な地位にある政治家の私邸に朝回りし、車に同乗するようなケースだ。全社は乗れないから、代表の2社ほどの記者が同乗し、車内で話を聞く。その内容を車に乗れなかった他社にもまとめて伝えるのである。
政変時などで完全密着取材する場合、国会内などのエレベーターも、一緒に乗ることができる記者は限られる。そこで、エレベーター内での会話を、降りてから他社にも教えるのだ。
長い間につちかわれた政治取材の「知恵」といっていい。これによって、より深い情報をつかむことができれば、結果的に国民の知る権利に奉仕していることになる。
最近の政治記者は小さなレコーダーを持ち歩いているから、詳細なやり取りを再現できるが、筆者などが現場を走り回っていた時代にはそんなものはなかったので、「合わせ」と称することをやった。
ある場面で重要発言が出たりしたような場合、各社の担当記者がわっと集まって、発言を反すうし、メモにまとめるのである。各社のデスクに届く情報メモは、全社共通ということになる。
どうも、今回の「失言報道」は、そうした政治取材の慣習が芳しくない方向で作用してしまったようだ。3点セットの発言は、3回のインタビューのそれぞれで出たのであって、実際には自ら取材していない部分もあるということになる。これでは発言のニュアンスはつかめない。これがまかり通るのは、底流に代表取材の感覚があるためではないか。
☆発言全体の流れを踏まえていたのか
誤解のないように断っておかなくてはならないが、中山氏に閣僚としての「危機管理」の意識が希薄であったことは指摘できる。
こういう発言をすればメディアはどう反応するか、政権にどういう影響を与えるか、といった構えがどこまで備わっていたか。その点で責任を問われるのならば仕方ないともいえる。
だが、森喜朗首相(当時)の「神の国」発言などでも経験してきたように、発言の一部分を取り上げて指弾するというのは、きわめて危険な側面がある。森氏の場合は、神道政治連盟の会合での発言で、全体を見れば、宗教心を教えることの大切さを説いた内容であった。
中山氏のケースでも、発言の全体の流れを踏まえないと、おかしなことになる。一部メディアにどこかで引っ掛けてやろうという思惑はなかったか。
失言騒ぎというのは報道されてしまうと、そこから独り歩きし、発言の中味そのものが吟味されるよりも、失言報道が多方面にもたらす反響が「ニュース」になってしまう。
中山氏のケースでは、日教組批判のくだりを見ると、教育を荒廃させた日教組、年金5000万件問題を生んだ自治労など、官公労批判が真意だったようだ。
その官公労が民主党の有力な支持母体であるということを強調する点に発言のねらいがあった。そのあたり、ネットの世界では中山氏擁護論がかなり多いことも指摘しておかなくてはなるまい。
3点セットとして「問題発言」を短い表現でまとめてしまうと、たしかに現職閣僚としては穏当ではないということになるのだろう。だが、ざっくばらんに所信を語るという趣旨のインタビューが、こういうかたちで取り上げられてしまうのでは、大胆、率直な発言を引き出せなくなる。
失言報道に躍起になったメディアは、自分で自分の首を絞めてしまったのではないか。言論、表現の自由は、可能な限り担保されなくてはならない。発言に異論があれば、それをぶつければいい。そこから自由闊達(かったつ)な論議が生まれる。
「失言」をことさら誇張し、「大臣の首を取る」ことに奔走するのでは、メディアの「劣化」という側面から改めて検証する必要があるように思える。
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2386 メディアのからくり 花岡信昭

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