大学時代からの旧友が奥日光の帰りに桐生市の大川美術館に立ち寄って松本竣介の絵を見学したら「資料展示ケー スの中に竣介が刊行した”雑記帳”の創刊号目次の多彩な顔ぶれの中に御尊父古沢元”借家”の名を見つけました」と教えてくれた。
「ちょうど2・26事件の起きた年、”人民文庫”刊行と重なる重苦し い時代だったのですね。作家や画家達の名を見ながら、彼らはどのように生きてゆこうとしたのだろうか、としばし思いをはせました。
松本俊介も下落合に住んでいたようなので、たぶん交流もあったのでしょうね。この画家の一連の作品をじっくり見ることが出来、やはり凄い人だったのだと感銘を受けた次第です。入館者も殆どなく、静かな雰囲気の中で作品を独占するような贅沢なひとときを過ごすことが出来ました」とある。
松本竣介(まつもと しゅんすけ、1912年4月19日 – 1948年6月8日)・・・昭和期の洋画家だが岩手県では米内光政海軍大将と同じくらい人気がある。竣介はモダンな都会風の絵画を好んで描いている。
明治45年に東京・渋谷で生まれた人だが、父親の仕事の都合で二歳の時に岩手県花巻に移り、少年期を花巻や盛岡で過ごしている。本名は佐藤俊介、大正14年に旧制盛岡中学に入学した。
発足当時の盛岡中学は全県下のえり抜きのエリートを集めて選抜している。各学年の生徒数は、僅か2クラス100人という狭き門。盛岡中学の外に一関、遠野、福岡の三校があったが、盛岡中学は別格で三校に先駆けて選抜試験を行ったという。
もとはいえば、水戸の藩学・弘道館をモデルにして盛岡藩士の子弟を教育してきた南部藩校・作人館が、明治13年に伝統を引き継いで盛岡中学となった。
盛岡中学の前身である作人館からは、東洋史の第一人者那珂通世、日本陸軍切っての英才といわれた東条英教、そして平民宰相として首相の座にのぼり南部人の喝采を浴びた原敬が出ている。
盛岡中学になってからは、野村胡堂、石川啄木、宮沢賢治、金田一京助という文人が育ち、軍人では陸軍の板垣征四郎(陸軍大臣)、海軍の米内光政(総理大臣)を双璧にして、山屋他人(海軍大将)、栃内曾次郎(海軍大将)、及川古志郎(海軍大将)、原敢二郎(海軍中将)が生まれた。
その伝統ある盛岡中学に佐藤俊介は入学したのだが、入学して間もなく流行性脊髄膜炎に罹って、半年間も入院生活という不幸な目に遭った。
しかも退院したら聴力を完全に失っていた。失意の中で三学年を修了した昭和四年に中途退学、上京して太平洋画会研究所選科に入った。三歳年上の兄・佐藤彬から画家を志すように言われたという。
私の父と叔父・・・古沢玉次郎(作家・古沢元)古沢行夫(漫画家・岸丈夫)は大正10年に盛岡中学に入学、玉次郎は大正15年に卒業、一年休学した行夫は昭和2年に卒業している。
佐藤俊介が盛岡中学の一年生の時に古沢玉次郎は五年生、古沢行夫は四年生だったから、古沢兄弟と松本俊介の交友は東京・下落合時代からであろう。
漫画家になる前の岸丈夫は画家を志している。松本俊介との出会いは「北斗会」だったのではないか。
大正12年に東京在住の岩手県出身者による美術団体「北斗会」が作られた。結成時の会員は27人、明治末から岩手県の美術界をリードしてきた萬鉄五郎、五味清吉を筆頭に美校(芸術大学)を卒業したばかりの深沢省三、紅子、彫刻の堀江尚志などの顔がみえる。岸丈夫は盛岡中学を卒業した翌年、昭和3年に北斗会に入会していた。
この北斗会だが、昭和8年の第5回北斗会、翌年の第6回北斗会に松本竣介(当時は佐藤俊介)と岸丈夫は一緒に作品を出品していた。同じ盛岡中学の同窓生ということもあったが、東京の住所が下落合という近場にあったことが急速に二人の仲を近づけたといえそうである。
戦後のことだが、松本竣介は三十六歳の若さで亡くなる半年前に岸丈夫にハガキを出していた。「喘息の方はその後出ませんが、疲れやすくて思うままに動けません。稼ぐのに追いまわされてヘトヘトです」と体調の悪化を訴えている。昭和23年1月25日の消印がある。
持病の気管支喘息が悪化して6月8日に亡くなった。岸丈夫も喘息持ちであった。
古沢元と松本竣介との交友は、弟の岸丈夫を介したものだった。昭和11年に佐藤俊介は松本禎子と結婚して「松本俊介」と名を改めた。”俊介”が”竣介”になるのは後のことになる。
この年の10月、禎子夫人と一緒にデッサンと随筆の月刊誌「雑記帳」を創刊した。松本俊介は画業だけでなく、文筆面でも爽やかな良い文章を書いている。創刊号には古沢元ら人民文庫作家の作品が多く掲載された。友情出演ということだろう。雑記帳は14号まで出ている。
松本竣介の代表作品は「街(1938)(大川美術館)」、「画家の像(1941)(宮城県美術館)」、「立てる像(1942)(神奈川県立近代美術館) 」、「Y市の橋(1942)(岩手県立美術館)」、「鉄橋付近(1943)(島根県立美術館)」、「裸婦(1947)(岩手県立美術館)」と全国に散らばっている。
人の生命は儚いが、その作品は永遠の生命を持って私たちを楽しませてくれている。
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2430 松本竣介と北斗会の人々 古沢襄

コメント
松本俊介のことを調べているのですが、ブログに俊介のハガキのことが書かれて有りましたが、現在のハガキの所在とその写真があれば、詳しく教えていただきたいのですが、又、俊介が戦後、何処かの劇団に関係していたらしいのですが、何かご存知でしょうか、もし、何らかの情報をお持ちでしたら、お教えいただきたいのですが、宜しくお願いいたします。
松本俊介のハガキは画家の小角又次画伯が持っています。鷺宮近くにお住まいですが、高齢で耳が遠くなったご様子。
私のところにハガキのコピーがあった筈ですので、探してみますが、文面だけでハガキ表面はコピーしなかった気がします。
俊介が戦後、劇団に所属していたのは聞いていません。ハガキにある様に戦後は持病の喘息が悪化するばかりで療養の毎日だった筈です。
戦前なら考えられますが、当時は売れっ子でしたから、劇団に関係する余裕もなかったのではないですか。