2452 西和賀温泉宿の女将二人 古沢襄

東北の温泉宿めぐりから戻ったところである。奥羽山脈の紅葉は今が盛り、北上市から西和賀に向かう仙人峠の山道は左手に錦秋湖、右手に紅葉の山々が連なる。
若い頃は紅葉にあまり関心がなかった。老境に入って紅葉の美しさに心を惹かれるようになった。骨髄腫の告知を受けて四年が過ぎた。告知後、三年が余命と思っていただけに残された一年々々が大切な日々となっている。だから紅葉の美しさが分かるようになったのであろう。
以前は温泉宿に着くと一日に朝、昼、晩と三回は温泉に入った。今は朝四時頃に誰もいない広い温泉に一人でゆっくりと入り身体を温める。外はまだ暗い。静かなひとときである。初日は西和賀の湯田温泉郷にある湯川温泉・御宿末広旅館に泊まった。女将の高鷹由枝さんは東北の女将では五本の指に入る美形。姿形が美しいだけでなく、明るいテキパキした仕事ぶりが魅力ある。

地元の岩手日報が「いきいきビジネス・ウーマン」という企画連載を始めていたが、十月二十二日の紙面に写真入りで高鷹由枝さんを取り上げていた。盛岡の山目小学校の先生だったのが、結婚を機会に女将になった。(写真の左端が女将)
湯田温泉郷でも中央の湯本温泉は明治から大正時代にかけて鉱山景気で大いに栄えた。私の家もこの地で鉱山を経営した山師の家系。明治の鉱山景気が大正末期には衰え、家が傾いて祖父の代に没落した。景気が良かった頃には、湯本温泉で芸者を揚げてドンチャン騒ぎをしたものだと祖母は昔語りをしてくれたものだ。
だが湯本温泉から離れた湯川温泉からは、この手の派手な話は伝わってくない。むしろ地元の人たちの湯治宿として明治、大正、昭和の時代を越えてきている。街道の両側に並ぶ温泉宿も小さな構えものが多い。だが戦時中には学習院高等科の学生が集団で疎開してきた「萬鷹旅館」があって、学習院長だった山梨勝之進海軍大将も泊まり、乞われるままに「永安泰常和楽」書を旅館に残している。
山あいの温泉旅館に嫁した高鷹由枝さんは、盛岡という都会育ちのセンスで御宿末広旅館の室内の飾り付けを変えていった。最初にこの旅館に泊まった時には、座敷の模様が都会風なのに気がついた。もともとが仕出し屋から旅館に転業しただけに、お祖母ちゃんが切り盛りするお料理は申し分ない。それですっかり御宿末広旅館のフアンになった。
いつの間にか御宿末広旅館の固定客が増えて、私のように西和賀に行くと女将の顔みたさに御宿末広旅館に泊まる者もある。経営が順調なので、五年越しの夢だった新しい旅館の工事が始まっていた。街道を少し下った小鬼ケ瀬渓流沿いのところに急ピッチで工事が進められていた。
「山人(やまど)」とは、山で働き、山に精通した者だけが称される名前だという。山人・・・山の達人が山の美しさ、山の温もり、優しさを泊まり客に堪能していただくのが、新しい御宿末広旅館の営業コンセプトだという。各部屋に温泉が引いてあるので、部屋の中で渓流の先の景色を楽しみながら、ゆっくりくつろげる趣向をこらした・・・ご主人と女将から設計図を片手にタップリ話を聞かせて貰った。来年五月が楽しみとなった。
最後の日は湯本温泉のホテル對龍閣に泊まった。私の親戚もこの地で旅館「高与」を経営していたが、かなり以前に廃業した。湯本温泉には昔日の栄えた面影がない。名前の知られたホテルや旅館もかなり消えている。
しかしホテル對龍閣は湯本温泉では栄えている。遠方からの泊まり客が多い。その秘密はここの女将の頑張りにある。私の杜父魚ブログの愛読者でもある。
例によって朝の四時に温泉で一人風呂を楽しんだ。身体は暖まったが、東北の晩秋の早朝は寒さが厳しい。手拭いをぶら下げてロビーを通ったら、ストーブの火が赤々とついている。「先生!」と声を掛けられて、見たら女将が手招きしてくれている。
女将は毎朝四時起きして、一日の準備で汗をかくのが日課だという。それが終わるとロビーに出て、泊まり客の接待に心配りをしている。
「盛岡から西和賀に嫁にきて三十八年になりました」・・・たしか盛岡の旧家の出である。「最初は戸惑ったけれど住めば都」と唄うように言った。私の相手をしながら、通りかかる泊まり客に声を掛けるのを忘れない。
ホテル對龍閣は、この女将で持っている。そう言うとご主人には悪いのだが、東北のホテルや旅館で繁盛しているところは女将の力に預かるところが大きい。ふと西馬音内(にしもない)の盆踊りを思い出した。あでやかな端縫い衣装の秋田女性が踊り手となって、男衆たちは踊り手が滑らないように道に砂を撒いて歩く。
男衆たちは裏方に回って黙々と盆踊りを支えている。私は男衆たちの豪快な祭りよりも、黙々と裏方の徹する祭りの方が東北に相応しい気がする。
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