■1.ロイターへの機密費■
第二次伊藤博文内閣で書記官長(現在の内閣官房長官)をつとめていた伊東巳代治(みよじ)から伊藤総理にあてた機密費の報告書が残っている。
支出の部
一、金四百九十九圓九十九銭九厘 ルートル社トラフォルド渡三月分・・・
ルートル社とは、英国の通信社ロイターである。当時、世界最大の通信社であり、かつ日本を含む極東において独占的な集配信権を握っていた。トラフォルド(トラフォード)は、その横浜支局の通信員であった。500円は、現在価値にして1千万以上の金額である。
この金額はトラフォード個人への支払いの一部で、ロイター全体への支払いを含めると、毎月総額7千円、現在価値にして1億4千万ほどの金額を支払っていたという。
時あたかも日清戦争直後、明治日本が国際社会にデビューした初舞台であった。その時代に、伊東はロイターを操って、国際世論を日本に有利に動かそうとしていたのである。
■2.情報官僚への道■
明治政府屈指の英語遣いと言われた伊東巳代治は、明治維新の11年前、安政4(1857)年に長崎で生まれた。長崎奉行に仕える下級武士の家だったが、土地柄から、武家というより商家のマインドを持って育ったようだ。
8歳にして、長崎奉行所の英語伝習所で宣教師から英語を習った。15歳にして上京し、工部省電信寮の官費生となって、当時最先端の情報技術である電信を習った。17歳になると神戸の外人居留地で発行されていた英国人経営の新聞社『兵庫アンド大阪ヘラルド』に雇われる。こうして、巳代治は若くして、英語、情報技術、メディアの知識を得た。これが明治日本の最初の情報官僚というキャリアにつながっていく。
20歳の頃、当時、参議、工部卿など新政府で枢要の地位を占めていた伊藤博文に見出され、以後、その片腕として八面六臂の活躍を始めるのである。
巳代治の情報官僚としての最初の大仕事が、明治12(1879)年のグラント米国前大統領の受け入れであった。当時、琉球の帰属問題が、日本と清国の間で持ち上がっていた。日清両国は双方とも琉球の領有権を主張し、膠着状態にあった。このタイミングで米国大統領を8年も続けた大物政治家が両国を歴訪することになった。グラントがどちらの国を支持するかによって、国際社会の世論も左右されると思われた。
最初にグラントを迎えた清国は、大いに歓待して、琉球問題をめぐる日本の非道ぶりを訴えた。内務卿として、この問題を担当していた伊藤は困惑したが、巳代治はグラントに日本の立場を積極的に主張すべしと提言した。
巳代治は、琉球が古来から日本の版図に入っていたことを、地勢、風俗、慣習、言語、歴史にわたって詳述する文書を作成し、さらにこれを証拠立てる古文書も英訳して、伊藤からグラントに直談判させた。
グラントは日本の主張に理解を示し、清国に対して「日本に対する抗議を早く撤回して、両国は仲良くなるべきである」と勧告した。また『ニューヨーク・ヘラルド紙』は、日清両国の主張と、グラントの日本支持の見解を掲載した。
この成功体験から、巳代治は国際世論の重要性を理解した。
■3.外交交渉の体験■
明治18(1885)年、伊藤博文は特命全権大使として清国に派遣され、巳代治も随行した。前年に朝鮮で勃発した親日派のクーデターが、清軍の応援を受けた李朝により阻止されていたのだが、その後始末を清国との間で交渉するためであった。
伊藤は、往路の船の中で、巳代治の準備した委細を聞いただけだったが、ひとたび交渉が始まると俄然、目つきが変わった。清国側は通訳を介した母国語での交渉を求めたが、伊藤は断固拒否して、交渉言語は英語とするよう強硬に主張した。外交文書を英語で作ることによって、日本の文明開化の進展を欧米列強にもアピールしようという狙いである。
初めから日本側に不利な交渉だったが、最終的には日清両国は朝鮮をめぐって対等である、という立場を貫くことができた。巳代治は伊藤の粘り強い交渉ぶりに感嘆した。
しかし、これは双方にとって満足のいく状態ではなく、中途半端な朝鮮の状況は、10年後に勃発する日清戦争の火種となっていく。伊藤博文の交渉相手は、最高実力者・李鴻章(りこうしょう)で、まさに日清戦争後の講和会議の前奏曲となった。
巳代治はこの外交交渉を体験した後、国際問題に強い関心を持ち、常に列強の動向を注視して、メディアを通じた情報収集と広報宣伝に務めるようになった。
こうして伊藤が日本の政治外交の中心となり、巳代治がその耳や口となるという体制ができあがった。明治18(1885)年、伊藤が初代の内閣総理大臣になると、巳代治は総理秘書官に選ばれた。
■4.パブリック・ディプロマシー(広報外交)■
明治27(1894)年8月、日清戦争勃発。日清の戦いを、横で欧米列強がじっと眺めていた。隙あらば介入して、獲物の分け前を分捕ろうとするハイエナのように。その動きを注視し、わが国に不利な動きをしないよう誘導する必要があった。
そこで鍵を握るのが、列強の政府要人や外交官だけでなく、それぞれの国の世論であった。そしてテレビもラジオもない時代に世論を動かしていたのは、各国の新聞であった。国際外交の舞台に始めて立つ日本にとって、名だたる外国新聞を味方につける事が、明治政府にとって大きな課題だった。
日清戦争では欧米の有力紙は、日本、清国、そして戦場となった朝鮮半島に多数の特派員を派遣した。特ダネを上げようと躍起になっている彼らに、有益な情報を与えながら、日本に好意的な記事として本国に送らせる。今日で言えば、パブリック・ディプロマシー(広報外交)である。
明治政府にとって幸いだったのは、この時に英語、情報技術、メディアに通暁した巳代治を政府中枢に抱えていたことだった。
■5.欧米メディアへの仕掛け■
ロイターに金を渡して操縦しようという試みは、巳代治の前に、駐英公使・青木周蔵が行い、契約まで至っていた。しかし、その契約では互いに情報を提供しあうという事は取り決められていたが、ロイター側は日本に有利な情報を流そうとはしていなかった。横浜にいるロイター通信員のジョン・ホールはその契約の存在すら知らないようだった。
そのために日清戦争の戦況がロイターを通じて、日本に不利な形で全世界に流されていた。しばしば日本側が大勝を得ても、清国側に同情的な記事が配信されていた。このあたりは、青木が欧米メディアの知識を有せず、またロイター通信員との間で個人的な信頼関係を築いていなかったのが原因であろう。
巳代治はこの事態を解決するために、横浜で発行されていた英字紙『ザ・ジャパン・メール』の社主であり、ロイター通信員も兼ねていたフランシス・ブリンクリーに目をつけた。ブリンクリーは日本語、日本文化に精通しており、日本人女性を妻に向かえ、明治政府に好意的な論陣を張っていた。巳代治はブリンクリーに重要な戦況ニュースを毎日渡すので、それをロンドンに向け発信するよう依頼した。
巳代治はさらに日本を経由して戦地に赴く欧米有力紙の記者に直接会って、日本の立場や戦況を自ら説明した。中でもタイムス記者トーマス・コーウェン、ニューヨーク・ヘラルド新聞通信員A.B.ガービルなどには、両名従軍中、戦況に進展があった場合は、両名の名をもってそれぞれの本社に電信で報告する、と約束した。
戦地からの電信はままならないし、電信自体が極めて高価であったから、両記者にとって好都合な申し出であった。また巳代治としても日本側からの発信情報を直接欧米各紙に伝えられるので、願ってもない連携である。メディアをよく知った巳代治ならではの仕掛けであろう。
こうした巳代治の工作によって、欧米紙での論調は日本に好意的なものになっていった。
■6.「日本による虐殺」■
開戦後4ヶ月経った12月12日、アメリカ最大の大衆紙『ザ・ワールド』は、従軍記者クリールマンの署名による短文記事「日本による虐殺」を掲載した。旅順口を占領した日本軍が、「無抵抗で非武装の住民たち」を3日間に渡って虐殺した、という内容である。
実際に現場の写真をとった日本人カメラマンは、「之を以て普通戦時の出来事として見るの外別に太く人心を驚倒する惨事と思惟する能はず」と述べている。清国軍兵士は民間人の服を着てゲリラ攻撃をしてくるので、一概に民間人虐殺とは言えないし、戦時にはセンセーショナルな報道が売り物になりがちであるからだ、と言う。
しかし、この記事をもとに、世界各地で日本糾弾の論調が広まっていった。巳代治はこれに対し、明治政府の弁明書を各国の記者に本国宛に伝送させた。フランスの『フィガロ』紙記者フェルマン・ガネスコは、クリールマンの記事が虚構である可能性がある、と付け加えて、打電した。
さらに英国の通信社セントラル・ニュース社のストーン記者は、クリールマン記者が「虐殺を重ねる日本軍を忌み嫌った従軍記者たちは、同行をやめ、帰還した」と報じた一文に関して、帰還したのは冬支度のためなのであって、記者たち自身がこうした偏向報道に驚いている、と伝えた。
こうして騒ぎ立てているのは結局『ザ・ワールド』だけとなり、他の欧米の重要な新聞はいずれもクリールマンの記事を攻撃する事態となった。
新聞対政府という構図ではなく、自由なメディア同士の論争という形で、この「虐殺」報道が日本叩きに発展するのを押さえ込んだのは、巳代治の広報外交の成果である。
■7.外国人記者らへの目配り■
翌1895(明治28)年1月、日本の勝利が確定的になり、従軍記者たちが日本経由で帰国を始めた。巳代治は彼らを丁寧に受け入れ、戦地で見聞きしたことを聞き出しながら、母国に帰ってから不穏当な報道にならないようチェックした。
前述のフィガロ紙記者フェルマン・ガネスコなどは、日本に到着するなり、自ら巳代治を訪ねてきて、日本の陸海軍の規律厳粛ぶりを口を極めて賞賛し、これまで世話になったことに厚く礼を述べた。巳代治はそれほどの信頼関係を、外国記者らと築いていたのである。
ただ、その中に『ザ・タイムズ』紙のコーウェン記者の姿がないのが気になった。巳代治はすぐに調査して、彼が自ら見つけた特ダネを、いち早く報ずるために英国軍艦に乗り込んだことをつかんだ。「コーウェンも日本については好意を抱いているので問題はない」と伊藤総理に報告している。外国人記者は一人でも見逃さないほどの巳代治の目配りであった。
■8.「ロシアと朝鮮」■
その後もロイターは、日本に好意的な立場からの報道を続けた。たとえば、この年の12月16日付け『ザ・タイムズ』は「朝鮮の引渡し」と題して、次のようにロイター電を伝えた。
ロイター通信は、列強が日本に対し、朝鮮より撤退するよう先制要求を行ったとの報には根拠がないとの情報を入手した。日本側は朝鮮に駐屯する部隊は極力少なくしたいと自ら考えており、以前にも報じたとおり、遼東半島との通信線の防護のために十分な部隊だけ配置している。現在行われている遼東半島からの撤退が完了次第、この必然性はなくなる。
翌年4月20日付『ザ・タイムズ』は横浜発ロイター電として、「ロシアと朝鮮」と題する次の記事を載せた。
ロシアに派遣された(朝鮮の)特使は、借款の取り付けについて授権されているのみならず、朝鮮王宮の警備のための部隊、および政府と軍隊のための顧問の派遣を要請する見込みである。現在、ロシアの軍艦九隻が長崎に停泊し、ルリク号他5隻の艦船の到着を待っている。
こうした報道を通じて、国際世論は「朝鮮に領土的野心を燃やしているのは日本ではなく、ロシアである」と見なしていったのであろう。
■9.明治日本の広報外交■
日清戦争は、明治日本が国際社会にデビューした最初の舞台であった。それは欧米列強注視の中で行われた。
後に、ロシアが独仏を含めた三国干渉によって、日本に遼東半島割譲を放棄させ、同半島南端部の旅順・大連を租借して我が物にするなど、欧米列強は隙あらば獲物を得ようと虎視眈々と日清の戦いを見ていたのである。
一歩、間違えれば、「日本は朝鮮と清国の領土に野心を燃やしている」とか、「旅順口虐殺事件」を大々的に喧伝されて「日本は好戦的な野蛮国家だ」などと、反日的な国際世論が醸成される恐れもあった。後の大東亜戦争ではまさにそうした事態に陥った。
幸い、巳代治を中心とした緻密な広報外交が奏功して、日本軍は立派な規律を備えた近代的軍隊であり、かつ領土的野心を燃やしているのはロシアの方だ、という認識が国際世論の中で広まった。
この後、日本は日英同盟を結び、英国の後ろ盾としてロシアと戦う。欧米諸国で多大の起債を行って戦費を調達した。さらに戦勝を得た後は、アメリカの好意的な仲裁を得た。親日的な国際世論がこれらの基盤にあった。これは巳代治が始め、その後も明治政府が推し進めた広報外交の賜物である。
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2472 明治日本の広報外交 伊勢雅臣

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